当時の千葉県海上町周辺は、砂鉄、水あめが大きな産業であり、在日の企業・従事者が多かった。そして、それらは「大町ルート」によって、新潟、富山へ輸送され、北朝鮮に輸出されていた。その「大町ルート」で多くの失踪事件が発生している。


大町ルートメモ

物流ルート
  起点とされる千葉県海上町、旭市、飯岡は戦後水あめ、砂鉄の地場産業が盛んで在日朝鮮人も多数従事していた。その水あめ・砂鉄は都内を抜け国道20号線沿いに長野県大町を抜け新潟、糸魚川の日本海沿岸に運ばれ北朝鮮に輸出されていた。そしてこの物流ルート沿いに関係する在日の人々が多く住んでいたのではないかと思われる。
   
太平洋側
  加瀬テル子さんが拉致されたのは1961年。その当時の北朝鮮工作船はかなり小型で太平洋岸に密入国することは不可能。拉致した人間を陸上で日本海まで運んだと見るのが正しいだろう。一定期間、監禁する場所もあったと見られる。
   
土台人
  北朝鮮諜報機関で使用される用語。在日のうち北朝鮮の出身か、肉親が北朝鮮に現存している者を指し、またこれらの条件を「土台性」と呼ぶ。北の諜報機関は土台人を選定して接近し、その親族らの身の安全と引き替えに工作任務を強要する。
   
組織
  行き当たりばったりに拉致しているのではなく何らかの条件に適合する人間を選定していたと見られる。地元のすぐ近くにいる人間が「選定」していたと考えるのが筋だろう。土台人が担当していたと見られる。そしておびき出す係、監禁しておく係、日本海まで運ぶ係、実家を見張る係等々、役割分担して実行されたのだろう。原敕晁さん拉致では朝鮮学校の校長、中華料理屋の店主、商工会理事長などが工作員・辛光洙によって動かされている。
   
水あめ・砂鉄
  水あめは戦争中はもちろん、戦後もしばらくは国家統制品であった。現在の感覚よりもはるかに貴重品であった。海上町の砂鉄は昭和40年頃から盛んになり、「キューポラのある街」川口にも運ばれていた。加瀬テル子さんの実家は農業であるが、水あめの製造にも携わり、また農閑期には砂工場(地元ではこう言っていたという)に働きにも行っていた。加瀬さんの実家にも買い付けに在日の人がしばしば立ち寄っていたという。しかも、加瀬さんの実家にほど近い場所にある水あめの工場の経営者は在日であった。
   
連鎖する拉致
  加瀬テル子さんの周囲では1985年に伊藤克さんが失踪し、また伊藤さんの家を建てた大工が謎の二週間の失踪をしている。川口では集中して失踪起きている。また武蔵野地域では同地域の大学に通う学生が失踪している。他地域での同様のことが起きている。土台人の組織が関与していると考えれば、同地域で拉致が連鎖することは自然なことでもある。
   
繰り上がる拉致年代
  従来、横田めぐみさんや連続アベック拉致事件の起きた1970年代後半から拉致が行われたと考えられていたが、加瀬テル子さんの写真が流出したことでこの年代が1960年代初めに繰り上がる。拉致被害者の数も桁が違ってくると思われる。
   
   
   
   
   
   
特定失踪者問題調査会
古川了子さんを救う会
山本美保を支援する会
緑風香Weblog
高野清文
中村三奈子さんを捜す会
高野美幸さんのブログ
荒木和博さんのブログ
   

05/10/15朝鮮総連施設の家宅捜索を受けて行われた調査会の記者会見

テレビ「ずばっと」大町ルート

テレビ「スパモニ」大町ルート

 

 



人名をクリックすると関連情報が表示されます(上記の地図は高野美幸さんの作成です)
   
「高野清文さん家族の戦い」より
     この地図は、特定失踪者調査会(代表・荒木和博)が拉致・失踪事件が相次いでいることから「大町ルート」と呼ぶ在日朝鮮人による北朝鮮への物資の運び出しルートと、拉致・失踪事件の発生場所を示したものである。
  大町ルートは、千葉県の海上(うなかみ)から長野県の大町を通って日本海側の新潟、富山へ抜けている。これが千葉まで延びているのは海上町にかつて、砂鉄採掘などの地場産業があり、在日朝鮮人の事業者や作業員が数多くいたからだという。
  拉致事件は、北朝鮮の工作員を在日朝鮮人などの協力者が手助けして発生している。在日朝鮮人の居住地域や、物資の運び出しルートに沿って被害が集中的に出るのも当然かもしれない。
  海上町でも、拉致疑惑が濃厚と伝えられる加瀬テル子さんらが失踪しているのである。  図にも示されている「キューポラのある街」として知られ、在日朝鮮人が多かった埼玉県川口市など、半径3キロの範囲に拉致被害者・特定失踪者が6人も出るという惨状を呈している。しかも、ここで救出運動の先頭に立つ藤田隆司さんは、兄、進さんと叔父、藤田慎さん(東京・蒲田で失踪)の肉親二人が失踪者という悲劇に見舞われている。
  美幸さんがこの地図を作成したのは、兄の高野清文さんは失踪したのは神津島からだが、実は出生地も実家(長野県塩尻)も、在籍した高校もこの大町ルート上にあるからである。こうした事実をみて肉親が北朝鮮の拉致に遭ったとの確信を深めるのは理由のないことではなかろう。
  それにしてもこうした拉致被害の調査が、民間の手で行われ、政府がどこまで関与しているのかが不明というのは実に理解に苦しむことだ。特定失踪者というのは、失踪の原因が北に拉致されたとでも考えるしかほかに見当たらない人々である。曽我ひとみさんや、横田めぐみさんらももともとは失踪者である。しかも亡命者などの証言から、長い間にわたって百人を超す日本人が拉致されているのは確実とみられている。
  それなのに政府はまだ、拉致被害者を10件15人から変えようともしない。これでは政府が拉致事件は最優先課題といっても誰も信用しないだろう。(山際澄夫さんHP「高野清文さん家族の戦い」より)
     
特定失踪者問題調査会・真鍋貞樹専務理事
    「千葉・旭町から東京、山梨・甲府、長野・大町を経て富山や新潟に抜ける『大町ルート』という在日朝鮮人の物流ルートがあるんですが、実はこの界隈で相当数の人間がいなくなっている。美保さんはこのルートで拉致された可能性があるんです。事件当時の甲府は、故・金日成主席が創始した主体思想の研究グループの活動が盛んだったんです。」 特定失踪者問題調査会・真鍋貞樹専務理事 (フライデー 4/23号)
     
全国にネットワーク最大5000人
     拉致には「土台人」と呼ばれる、在日コリアンや暴力団関係者による協力者ネットワ ークが関与しているケースが少なくないことも明らかにされた。「調査会」では「全国で最大5000人の土台人が存在する」とみている。
 「調査会」の兵本達吉理事によると、拉致工作は、北朝鮮から来た4人1組の工作員 を、10人程度の土台人が幇(ほう)助するケースが多い。土台人の中には「拉致現場 に土地カンがあり、道案内やアジトの提供などを行うグループと、拉致対象者を選定す るグループがあると考えられる」という。 (報知新聞03/02/10)
     
「大町ルート」について・・・日本人を運ぶルートがあった!
   

 拉致事件が太平洋側で発生し、日本海側に拉致被害者を陸路で運ぶとしたらどのようなルートで運ばれたのだろうか。その一つのルートの可能性として「大町ルート」がある。それは、千葉県の銚子を起点に、東京、山梨、長野(大町)そして新潟あるいは富山に抜ける物流ルートだ。実際にこうしたルートが拉致に使われたかどうかは未だ実証されていないが、加瀬さんの拉致が明らかになったことで、よりその存在が裏付けられることになった。

 このルート線上には多くの失踪事件が存在している。失踪者の失踪場所と、当時の住所そして何らかの形でこのルートとの関わりがある失踪者を検索すると、実に、調査会のリストにある約420名の失踪者(登録作業中のものも含む)の4分の1の120名にも達する。しかも、田口八重子さん、久米裕さん、蓮池ご夫妻、横田めぐみさん、そして富山のアベックは、このルート上に発生した拉致事件だ。なおかつこのルートが日本海側に出た場所は糸魚川河口であり、その周辺には上陸ポイントが多数存在する。さらに、このルートには総連の直営パチンコ店が存在するし、工作員が潜入していたのもこのルート上だ。付言すれば、ファン・ジャンヨブ書記が韓国への亡命前に日本に立ち寄った際に、富山方面から東京の小平市の朝鮮大学校に向かったルートでもある。

 その「大町ルート」の起点となった千葉県の旭市に、戦前香取航空隊の基地があった。その基地には多くの在日が徴用されていた。戦後、基地の閉鎖に伴い、在日の生活の糧として、前述のように、砂鉄の採取と水あめの生産があった。当時の九十九里は良質の砂鉄が多く取れたという。そのため、日本人も含めて一大産地を形成していた。砂鉄とともに一大産業を形成していたのが水あめだった。水あめの生産にはサツマイモが必要だったが、海上町周辺ではサツマイモも一つの大きな産物だった。

 砂鉄や水あめは、東京、山梨、長野を経由して新潟あるいは富山方面へとこのルートが使われて出荷された。そして、砂鉄や水あめは北朝鮮へと輸出されていた。砂鉄は鉄鋼の原材料として、そして焼酎の味付けに水あめが必要だったと考えられる。

[[[[[[[[調査会ニュース Vol.187]]]]]](2004.10.23) 執筆:真鍋貞樹氏 より

     
歴史の闇
    「大町ルート」といっても多分、ピンとくる人はいないだろう。
 千葉県の太平洋岸に近い海上町周辺から、東京、山梨の甲府、長野県の大町を通って日本海側の新潟、富山へ通じる道筋のことだ。もともとは、在日朝鮮人による北朝鮮への物資の運び出しルートのことだという。
 かつて海上町周辺には砂鉄採掘や水あめなどの地場産業があり、在日朝鮮人の事業者や作業員が数多くいて、そこからさまざまな物資を北朝鮮に運んでいたというのだが、このルートに沿って拉致・失踪事件もまた相次いでいることから「特定失踪者問題調査会」(荒木和博代表)が拉致との関連を注目している。
 東京に住む高野美幸さんという女性が、この大町ル−トと実際に起こった拉致、失踪事件を記した地図を自分のホームページで公開している。それをみると確かにこのルートにそって頻頻と拉致、失踪事件が生じていて、その重大さが実感となって迫ってくる。

 海上町周辺では、加瀬テル子さんら三人が失踪、京葉地区でも古川了子さんら五人、東京は対象者が数十人もいて大半は書き込むことすら出来なかったという。
「キューポラのある街」の埼玉県川口市など、半径三キロの範囲に田口八重子さんら拉致被害者、失踪者が六人も出るという惨状を呈している。最近、脱北者の持ち出した写真によって北朝鮮にいることが確認されて話題になった藤田進さんもその一人である。
 新潟の横田めぐみさん、曽我ひとみさん、それに大沢孝司さんもみんな大町ルートで失踪したといってもいいだろう。拉致事件は、北朝鮮の工作員を在日朝鮮人などの協力者が手助けして発生している。在日朝鮮人の居住地域や、その活動ルートに沿って被害が集中的に出たのは当然のことかもしれない。
 高野美幸さんの兄の清文さんは電気通信大学の学生だった一九七六年(昭和五十一)に失踪した、いわゆる「特定失踪者」である。失踪したのは伊豆七島の神津島からだが、実は出生地も実家(長野県塩尻)も、在籍した高校もこの大町ルート上にある。こうした事実をみて肉親が北朝鮮の拉致を疑うのは理由のないことではないだろう。
 高野清文さんのような特定失踪者とは仮につけられた名称である。「9・17」 のあと、失踪した肉親を持つ家族から拉致ではないかとの問い合わせが「救う会」に殺到、このため「救う会」は昨年一月に別組織の「特定失踪者問題調査会」を立ち上げて、拉致の疑惑が払拭できない人をこう呼んだのである。
 特定失踪者問題調査会では、特定失踪者を順次、顔写真付で公表しているが、特定失踪者情報はこれまでに四百二十人にも達している。このうち、脱北者の目撃情報や、失踪時の状況から拉致が濃厚として政府に拉致の認定を求めているのが、別掲の三十三人である。大沢孝司さんや、藤田進さんはこのなかに入っているが、高野清文さんはまだ入っていない。
 
拉致の海流
山際澄夫著 扶桑社文庫 700円 

     
  朝鮮総連傘下団体の関係先を家宅捜索−拉致にも関与か
   

命を救う病院の関係者が、人生を奪う拉致に関与か!? 東京都足立区の北朝鮮系総合病院「西新井病院」の関係会社が違法医薬品販売やインチキ広告をしたとして警視庁公安部は14日、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)傘下の団体幹部で同社社長ら2人を逮捕、関係先を家宅捜索した。さらに、昭和51年に失踪して「拉致濃厚」の藤田進さん=当時(19)=について同病院関係者を名乗る男性が「病院施設を使い、拉致に加担した」と衝撃の供述をしたこともわかった。

今回の事件は、単に薬事法違反にとどまりそうにない。北朝鮮による日本人拉致事件の一端が、大きく解明に向かう可能性も出てきた。
西新井病院は、在日朝鮮人で朝鮮総連中枢と関係が深いとされる金萬有氏が院長を務める。昭和58年に北朝鮮政府と合弁で平壌に姉妹病院を設立するなど、北政府と直接関係もある。
こんな西新井病院の内部関係者とされる男性が、藤田進さんの「拉致に加担した」などと、衝撃の告白をしたのだ。
藤田さんは東京学芸大1年生だった昭和51年2月7日、「警備員のアルバイトで新宿に行く」といって埼玉県川口市の自宅を出たまま失踪。特定失踪者問題調査会は昨年8月、北による「拉致濃厚」と発表したが、政府はまだ拉致被害者と正式認定していない。
病院の元関係者を名乗る男性は平成15年1月、同調査会に匿名で電話をして、藤田さん拉致について告白。昨年12月と今年1月の2度にわたり調査会側と面会し、「千葉県鴨川市にある病院の保養施設に監禁されていた藤田さんを、車で新潟県内に連れて行き、別の男に引き渡した」「藤田さんは運ぶ途中泣いていた」などと、具体的な経緯を証言した。
「脅されてやった」と拉致関与の理由を説明。「反省している。藤田さんを救出したい」と改悛の言葉を繰り返す一方、「若い女性2人の拉致も手伝った」とも証言した。この2人が誰なのかは判明していない。

男性は日本のパスポートを示し「名字は『チョウ』で貿易業をしている。国籍は日本」と話したが、身元は確認できなかった。病院幹部の運転手をしていた、という情報もある。警視庁公安部もこの男性について把握しているという。
男性の証言には物証はないが、この日会見した特定失踪者問題調査会の真鍋貞樹専務理事は「信ぴょう性に疑問な点も多いが、病院の正確な内部情報も一部あった」と指摘。「西新井病院は北の工作活動に関与していると長らく言われてきた。これを機に拉致実行のネットワークが明らかになれば」と期待する。

http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200510/sha2005101502.html

*この西新井病院の保養所は、千葉の御宿にあり「大町ルート」の起点近くである。この付近の海岸での特定失踪者もいる。

     
西新井病院の保養所(御宿)近くでの失踪事件
     それからこれも固有名詞を申し上げるとちょっと難しいんですけれども、足立区にあるN病院、N病院と言えばあの、ご存知の方は「あそこだ!」ということなわけですけれども、このN病院というものがですね、あの、在日の者の経営する病院なんですけれども、ここが当然大町ルートに存在し、尚かつですね、この N病院の保養施設が、このルートからちょっと外れるんですけれども、鴨川とえみ?にあります。

 当然ここがですね、あの、何かしらの工作活動に使われたのではないのだろうか?というふうに想像をしていたわけですけれども、これちょっと後でお話したいと思いますけれども、そういう関連施設がですね、た〜くさんこのルートに存在します。(中略)
 
 
 それから千葉ではたくさん他にも失踪があるんですけれども、公開されている方では、鵜沢幹雄(うざわ みきお)さんという方が御宿で失踪されていますけれども、これはとっても不思議な失踪でして、会社の忘年会でみんなでわぁ〜っと飲んでって、それで「酔いを醒ましてくるよ」と言って仲居さんのサンダルをですね、借りてふらふらふらふら海岸の方に歩いて行ったのが同僚が見られた最後の姿なんです。

 その御宿の海岸で夜釣りをしていた方が、その「ふらふら歩いている男性を見ました」という証言をなさっていまして、その方曰く「その、ふらふら歩いて来た人物を介抱するようなかたちで連れて行った男性がいます。どっか遠くに歩いて行きました」という証言があります。

 それはとても重要なので、「その介抱した人物は誰なのか?」ということになるんですけれども、未だに現れておりません。「それは一体誰だったんだろう?」つまり鵜沢さんは自殺とか事故ではないということですね。

 その鵜沢さんが履いていたという女性物のサンダルはですね、堤防のところに落ちていましたので、というか転がっていたので、「事故じゃないのか?」ということで終わってしまっているわけですけれども、目撃証言はあるわけですし、事故の形跡がまったくない、という事件ですね。

 「一体鵜沢さんはどこにいっちゃったんだろう?」それから「鵜沢さんを介抱した人は一体誰なんだろう?」と、未だにわからない事件ですね。

全文は下記aoinomamaさんのブログでご覧下さい。
6/25 古川了子さんを救う千葉集会in市原 真鍋貞樹さん
http://aoinomama13.seesaa.net/article/4740905.html

     
     



上記掲載の「大町ルート」の画像は、特定失踪者高野清文さんの妹さん、高野美幸さんが作成されたものです。ただしこのページ全体の作成責任は電脳補完録・山本にあります。(救う会・特定失踪者問題調査会等の機関とは無関係の個人による作成です。この点予めご了承下さい。)
高野美幸さんは、兄の失踪の約2週間前に同じ伊豆七島の新島で失踪された女性の情報を求めています。
詳しくは、こちらをご覧下さい。