北朝鮮拉致事件関連年表・資料

 

【工作員「辛光洙」】原敕晁さん拉致の全容
 

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【工作員「辛光洙」】原敕晁さん拉致の全容(1)
[2002年10月05日 東京朝刊]
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□「日本人に成りすまし情報収集せよ」 
◆在日協力者接点に対象物色 

 「辛光洙(シングアンス)の関与等については今後、法的仕組みができたら(北朝鮮が情報を)提供する」
 大阪の中華料理店店員、原敕晁(ただあき)さん=当時(四三)=拉致事件に関し、二日、政府調査団が発表した資料にはこう書かれている。
 北朝鮮は、辛光洙容疑者(七三)の犯行を依然として認めていない。だが、事件に関して、今後、何らかの形で言及しなければならなくなったのは間違いない。
 警察庁は辛容疑者を、原さんの拉致をめぐる旅券法違反容疑で、国際刑事警察機構(ICPO)を通じて国際手配し、北朝鮮に身柄の引き渡しを求めている。日本人拉致事件のなかでは「犯人」が明らかになっている数少ないケースだ。
 「拉致工作員の犯罪」は、どのように行われたのか。韓国での判決文や日本の捜査当局の調べなどをもとに再現する。
 
◇エリート
 昭和四年六月二十七日、静岡県生まれ。日本の敗戦とともに家族と北朝鮮に戻る。二十五年、朝鮮戦争が始まると北朝鮮義勇軍に入隊。二十七年五月、朝鮮労働党に入党し、二十九年、ルーマニアのブカレスト工業大学の予科に入学。機械学部を卒業し機械技師資格証を取得した後、北朝鮮に戻った…。これが辛容疑者の略歴だ。
 四十六年二月、辛容疑者は対南工作員に抜擢(ばつてき)された。二年後の夏には、工作船で初めて日本に密入国し約三年間、国内で在日朝鮮人を取り込む工作活動を行った。再び工作船で北朝鮮に戻った後、辛容疑者は、工作員養成機関「金星政治軍事大学」に入学する。
 この養成機関では、後に大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫(キムヒヨンヒ)・元死刑囚も訓練を受けており、辛容疑者が筋金入りの工作員だったことが分かる。この養成機関は後に「金正日政治軍事大学」と名称変更される。韓国に亡命した安明進・元工作員が、「横田めぐみさんや市川修一さんを見た」と証言したのも、この大学だった。
 
◇指令
 平壌市龍城区域の龍城5号招待所。昭和五十五年二月、辛容疑者は「金」という名の指導員から指令を受けた。
 「基本任務として、日本に浸透し合法身分を獲得せよ。そのために日本人を拉致し、その人物に成りすまし、南朝鮮(韓国)の各種情報を収集報告せよ」
 獲得対象者は(1)日本人であること(2)年齢は辛容疑者と同世代の四十五−五十歳(3)独身者で身寄りがないこと(4)前科がなく、旅券の発給を受けたことがない者−などの条件に合致する人物。辛容疑者は具体的な行動計画を考えた。
 
◇再潜入
 同年四月中旬、辛容疑者は北朝鮮西部の南浦市の海岸から工作船で出航した。午後七時ごろだった。
 工作船は翌日、中国・山東半島の「工作前進基地」に寄港。それから三日かけて宮崎県沖の公海上までやってきた。昨年十二月、奄美大島沖で巡視船と銃撃戦を行った末、沈没した工作船と似たような航路を、すでにこのときからとっていたことが分かる。
 工作船の後部の観音開きの扉が開き、工作子船が海上に姿を現した。辛容疑者はそれに乗り換え日本領海に侵入。さらにゴムボートに乗り換えて宮崎県日向市の北端の五十鈴川下流の海岸から上陸した。辛容疑者は日本名「坂本」を名乗ることにした。
 辛容疑者は東京や大阪で在日朝鮮人に接触。「祖国にいる親族」の話をちらつかせたり、「祖国統一事業に協力してくれないか」などともちかけ、協力者に仕立てあげていった。

 その協力者の輪の中にいた在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)大阪商工会の元幹部が経営する中華料理店で働いていたのが原敕晁さんだった。「物色するのも大変だし、ましてやこんなことだれにでも頼むわけにはいかない」。原さんが北朝鮮が求めている条件とほぼ合致していたため、対象にしぼられていった。


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【工作員「辛光洙」】原敕晁さん拉致の全容(2)「新しい仕事を紹介する設定」
[2002年10月06日 東京朝刊]
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◆総連幹部ら4人でシナリオ
 
◇謀 議
 昭和五十五年六月初旬、大阪・新御堂筋沿いのフグ料理店。四人の男がフグをつつきながら、話し込んでいた。話を進めていたのは「坂本」こと辛光洙(シングアンス)容疑者だ。
 「新しい仕事を紹介するという設定です。あなたは社長の役をやってください。私が専務をやります。あなたには常務をお願いします。偽装して彼(原敕晁さん)に面接をして新入社員に採用するということにする。海辺の別荘で社長が待っているということにして海岸まで連れ出そう…」
 「専務」役が辛容疑者。「常務」は、平成十二年八月、日本の捜査当局が韓国・済州島に捜査員を派遣し、任意の事情聴取を行った韓国人男性(七四)。
 残りの二人は朝鮮総連大阪商工会の幹部(当時)で、一人が「社長」役、もう一人は原さんの雇い主だった。原さんを宮崎県・青島海岸から連れ去る計画が念入りに練られていった。
 
◇同居生活
 辛容疑者は、最初に日本に潜入した四十八年七月から五十一年九月までの間、在日朝鮮人女性(六五)と同居していたことがあった。
 女性は四十八年十二月、東京都目黒区に一軒家を借りた。女性と三人の子供は一階に、辛容疑者は二階に下宿した。
 辛容疑者の「東京で商売がしたいので、私の代わりに家を借りてくれないか」という申し出で始まった同居生活。費用はすべて辛容疑者が出した。
 「子供の勉強をみてくれるなどやさしい人でした。昼間は部屋にこもりっきり。夜になると部屋から数字の番号だけが流れるラジオの音が聞こえてきました。新宿の書店に一緒に行ったとき、自衛隊の飛行機や武器に関する本を買ってきてほしいといわれ、買ったことがあります」。女性は辛容疑者との同居生活をそう振り返った。
 
◇下 見
 この同居生活中に女性は、後に原さんが拉致される宮崎県・青島海岸に辛容疑者と旅行に行ったことがあった。
 辛容疑者は東京・馬喰町で計算機や乾電池、ラジオなどをボストンバッグがパンパンになるくらい買いあさって青島海岸に向かった。
 「何に使うの」と女性が聞くと、「朝鮮に送る」といった。「朝鮮総連に頼めばいいのに」と女性。「直接、手渡したい」。辛容疑者は表情ひとつかえずにそういった。
 青島海岸に着くと、夜遅くになって海岸の近くの公園に散歩に行った。しばらくすると辛容疑者は女性に「あなたはもう帰りなさい」といって、お金を手渡した。
 辛容疑者は女性を気にも止めない様子でボストンバッグからヘッドホンを取り出し、ラジオを聞き始めた。女性は「おかしいな」と思いながらも、夜行列車で東京に向かったという。


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【工作員「辛光洙」】原敕晁さん拉致の全容(3)「社長の別荘に行こう」
[2002年10月07日 東京朝刊]
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◆戸籍謄本の受け取り目的
 
◇実 行
 大阪のフグ料理店での謀議からしばらくたった昭和五十五年六月中旬、大阪のとある料亭で原敕晁(ただあき)さんの「面接」が行われた。「内定」が出た席で原さんはかなり酒を飲まされていた。
 「社長」にふんした男は「私は時間がないので君たちだけでこの金で旅行でもして、数日後に海岸の私の別荘でまた会おう」といい、「専務」の辛光洙(シングアンス)容疑者に百万円を手渡し、中座した。
 辛容疑者はその晩のうちに原さんと夜行列車に乗り、大分県・別府へ向かった。別府でチェックインしたホテルの部屋でラジオを平壌放送に合わせた。「29627…」(辛容疑者の生年月日一九二九年六月二十七日)。平壌から「予定通り実行」の暗号を聞いた。
 翌朝、別府から電車とバスで宮崎県・青島海岸へ。観光ホテルにチェックインした一行は、夕食時に大宴会を開いた。
 夜もふけたころ、辛容疑者は泥酔した原さんを「社長の別荘に行こう」と誘った。原さんは辛容疑者と共犯の韓国人の男と一緒に、青島海水浴場北端の小川が流れ込む地点に行った。
 すでに潜入していた北朝鮮工作員四人が、突然、暗闇から出てきた。「心配はいらない。船を持ってきた人ですよ」。辛容疑者に促され、原さんは用意されたゴムボートに乗った。辛容疑者も乗った。二人は沖に停泊していた工作子船、工作母船と乗り換え、四日後、北朝鮮・南浦港に到着した。
 辛容疑者が「原敕晁」になった瞬間だった。
 
◇低い信憑性
 北朝鮮が今回、政府調査団に提供した情報によると、原さんが北朝鮮に渡った(拉致された)のは、同年六月十七日だったという。
 だが、その経緯については、かなり北朝鮮側に都合のいいストーリーになっている。
 《(原さんが)金もうけと病気治療(歯科)のため、海外行きを希望していたところ、工作員(辛容疑者?)が本人の戸籍謄本を受け取る見返りとして、百万円と共和国(北朝鮮)への入国を密約した。これにより、宮崎市青島海岸から連れてきた》
 つまり、北朝鮮行きは拉致ではなく、「本人の同意があった」というわけだ。ただ、工作員の目的が「本人(原さん)の戸籍謄本を受け取ること」であったことは、図らずも認めている。
 公安関係者は、北朝鮮が今回出してきた情報は信憑(しんぴよう)性が低いと判断しているが、拉致の手口については注目しているという。
 北朝鮮に運ばれた原さんは、約四年間、招待所で朝鮮語などを学んだ後、一九八四(昭和五十九)年十月、田口八重子さん=当時(二二)=と結婚したとされる。
 辛容疑者が原さんに成りすますために日本人化教育を受けた訓練所(招待所)は、大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫(キムヒヨンヒ)・元工作員が「李恩恵」こと田口さん(北朝鮮側は関係を否定)から、日本人化教育を受けた訓練所と同じだったことが分かっており、二人はその過程で結婚させられたのかもしれない。


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【工作員「辛光洙」】原敕晁さん拉致の全容(4)“本人”になりきり世界出没
[2002年10月08日 東京朝刊]
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◆「赤化統一」へ韓国潜入も
 
◇背乗(はいの)り
 原敕晁(ただあき)さんを拉致した後、辛光洙(シングアンス)容疑者は約五カ月間、平壌市の東北里三号招待所で政治思想学習、外国語学習、日本人化学習などの教育を受けた。
 その一方で「原敕晁」に成りすますために原さんの学歴や経歴、家族関係といった身元事項を暗記した。中華料理の作り方の訓練も受けた。
 大阪から東京へと住民票を移す。転入届を出した東京都豊島区役所で「原敕晁」名義の印鑑登録証、国民年金手帳、国民健康保険証などの発給を受けた。運転免許証も取得した。
 さらに朝鮮総連の元活動家が経営する企業に在職していることにして東京都旅券課にパスポートを申請。昭和五十六年十一月二日、辛容疑者はパスポートの発給を受け、公然と「原敕晁」を名乗るようになった。
 原敕晁さんに成りすました辛容疑者は在日朝鮮人らを協力者に引き込み地下活動を繰り広げる一方、自らは「原敕晁」のパスポートでパリ、モスクワ、ニューデリー、香港、チューリヒ、ウィーン、バンコク、マカオなど世界中を自由に出入りした。
 五十七年六月、辛容疑者は大阪の喫茶店で、原さん拉致の謀議から実行まで加担した韓国人の男と落ち合った。韓国・釜山での情報収集の報告を聞くためだ。
 「釜山の海岸に行き、海岸一帯の地形と軍人たちの海岸警戒哨所の勤務状態を探ってみましたが、哨所は海岸に浸透してくる北朝鮮工作員を捜索するために観察が容易な地点に設置されています。われわれの工作員がそこから侵入するのは難しいと思われます」
 
◇逮捕
 辛容疑者は旅券を申請する際、在職証明証を作成してくれた朝鮮総連の元活動家からも貴重な資料を入手した。
 元活動家が買収とオルグ活動を繰り返し手に入れた二級秘密の表示がある「米韓合同チームスピリット85訓練計画書」だ。
 韓国に潜入して地下組織をつくり、民間から赤化統一の流れを作る−。辛容疑者は六十年二月、韓国潜入を図った。もちろん正規の旅券でだ。成田空港から大韓航空機でソウルに。
 ところが協力者の一人が韓国当局に自首したことから、入国三日目に、ソウル市内のホテルで国家保安法違反(スパイ活動)容疑で逮捕され、裁判で死刑が確定したのだった。


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■工作員「辛光洙」(5)
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【原敕晁さん拉致の全容】

北朝鮮で英雄扱い受け暮らす
「身柄引き渡し」で真相を

≪送 還≫
 辛光洙(シングアンス)容疑者はその後、無期懲役に減刑され、政治的転向を拒否した「非転向長期囚」となったが、平成十一年末に恩赦で釈放された。そして十二年九月、金大中大統領の「太陽政策」の一環として、辛容疑者を含む非転向長期囚六十三人が北朝鮮に送還された。
 北朝鮮は「拉致工作員」らを「信念のつわもの」「不屈の闘士」などとたたえ、英雄扱いして迎え入れたのだった。
 日朝首脳会談の約二週間前、辛容疑者は南北軍事境界線の板門店で開かれた非転向長期囚帰還二周年を祝う会に出席した。
 ラヂオプレスによると、辛容疑者は登壇し、「(韓国からわれわれを救出してくれた)金正日将軍こそ運命の救世主」などと金総書記をたたえたという。
 日朝首脳会談で、金総書記は「(拉致の)責任ある人々は処罰された」と語った。
 今回の政府調査団への説明では、拉致事件の責任者である、チャン・ボンリムとキム・ソンチョルは一九九八年、職権乱用を含む六件の容疑で裁判にかけられた。
 チャンは死刑、キムも十五年の長期刑に処せられたという。
 だが、「拉致工作員」である辛容疑者は今でも北朝鮮で英雄扱いを受けながら暮らしている。
 辛容疑者の身柄引き渡しは、北朝鮮との間に犯人引き渡し条約の締結がなく、事実上不可能なのが実情だ。

≪証拠なし≫
 原敕晁(ただあき)さんは、拉致されてから約六年後の一九八六(昭和六十一)年七月、肝硬変のために亡くなったという。
 死亡が事実ならば、まだ四十九歳。妻とされる田口八重子さんは、「夫の死亡後、精神的衝撃を受けていたが、乗用車とトラックの衝突事故で死亡した」とされている。田口さんの死亡は原さんが亡くなった約十日後で、あまりにも不自然だ。墓は、田口さんと同じ場所にあったが、九五年七月の豪雨によりダムが決壊し、流された。子供もおらず、遺品もない。
 田口さんも三十歳。早過ぎる、若過ぎる「死」についての合理的な説明や裏付ける証拠は一切提供されなかった。
 政府調査団の報告を聞いた原さんの兄、耕一さん(七六)は、「とても驚いている。北朝鮮の言うことが果たして信じられるかどうか…」と戸惑いを隠せない。
 拉致事件の真相究明はもちろんだが、原さんらがその後、北朝鮮でどういう扱いを受けたのか。徹底的に追及するためにも、辛容疑者の早急な身柄引き渡しが求められている。=おわり