拉致被害者のお人柄、拉致後のご家族の物語り、今後の救出方法を詳しくお話させていただきます。 | |
日 時:2005年1月13日(木)午後6時半〜8時半 登壇者:松木信宏・斉藤文代・西岡力 場 所:友愛会館9階=三田線芝公園A1出口すぐ(三田会館隣) JR田町駅徒歩10分 地 図;http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.45.10.8N35.38.54.1&ZM=9 参加費:千円 主 催:救う会東京 救う会全国協議会 連絡先:救う会事務局 03−3946−5780 |
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◆松木信宏 『一通の手紙から全てが始まった...』 |
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松木薫さん | ||
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1953年6月13日生 3人女の子が続いた後、松木家の待望の長男として生まれる。京都外語大学大学院でスペイン語を学んでいた。 ある時帰省した彼は母に「はいお菓子」と箱を差し出す。<あら、うれしいとスナヨが蓋を開けると、中にはお札が詰まっていた。母親が渡していた小遣いだ。(中略)「こんな出来すぎた子を生んだ覚えはないよ」。スナヨはそう言いながら感激して涙をためていた>。(『家族』より) 1980年、26歳、スペイン語に磨きをかけるためスペインに留学。 『今でも後悔している、勧めなきゃ良かった、父は駄目と言ったが、母と私が賛成した。したいことがあっても出来なかったので、行かしてあげたらと言った・・・ 』(斉藤文代さん) スペイン・マドリッドでよど号犯の妻、森順子・黒田佐喜子が松木薫さん、石岡亨さんに接触。6月7日、拉致目的でオーストリア・ウィーンに連れ出す。森順子・黒田佐喜子の2名は石岡亨さんとはバルセロナの動物園で偶然出会っただけ、松木薫さんに関しては全く知らないと言っている。当時、スペイン・マドリッドに滞在していた日本人女性2名が、松木、石岡、森、黒田の4人と親しくしており、一緒にウィーンに行かないかと誘われていたことを証言している。 父は地元警察に足を運び捜索を願った、また、スペインに行ったことがある人を訪ね消息を聞いた。 1988年9月、石岡亨さんから松木薫さん、有本恵子さんと共に北朝鮮にいることを知らせる手紙が札幌の実家に届く。住所の書かれていた有本恵子さんの実家にはすぐに連絡が出来たが、熊本市としか書かれていなかった松木家にはなかなか連絡がとれず90年末になってようやく連絡が出来た。 91年1月、有本家、石岡家、松木家の三家族が神戸で初めて集まった。松木家からは当時高校生だった弟、松木信宏さんが出席した。 当初は、そこまでは(兄が北朝鮮にいるということ)断定出来なかった。いや、信じられない、信じたくなかったと言う方が正解かもしれない。何故かと言うと、石岡亨さん、有本恵子さんの場合は、手紙は亨さんの直筆であり、有本さんも直筆の署名があったし、二人とも本人の写真もあった。兄の場合は、住所などは石岡さんの代筆であり、写真も無い。ただ、石岡さんと兄の欄の間に赤ちゃんの写真が貼ってあった。兄の子供の頃の写真ではないし・・・現地の女性との間の子供だろうか?今現在は、石岡さんと有本さんの子供の写真ということになっているが、三家族が神戸に集まった時は、そういうことは考えもつかなかった。他の人達が、『生きている証』というべきものを送ってきたのに対し、兄であると言う証拠は全く無く、訴えようが無かった。訴えたとしても、「高校生」の私の言葉に耳を傾けるマスコミ、政治家が果たしていただろうか?いなかっただろうと思う。(松木信宏さん) 三家族は、連名の嘆願書を用意し、「名前も出して、記者にも話そう。外務省にもお願いしよう」と決めた。 91年1月16日、有本、石岡、松木3家で相談し、外務省で会見しようとしていた所、寸前にNHKの記者から「会ってもらいたい人がいる」と連絡があり、ウニタ書店経営のEが来て、「恵子さんたちは生きている。 拉致を表に出すのは危ない。自分は金日成の侍医とつながる人を知っている。会見を中止すれば助けてやる」というので中止した経緯がある。Eは恵子さ んに手紙を届けてやる」といったので家族で寄せ書きして渡したが、後日「よど号」犯の支援者Tが有本家を尋ねて来て、「Eからご両親らが恵子さんあ てに書いた手紙を預り(「よど号」犯の)田宮高麿に届けた」と話した。この時点で生存していた可能性が高い。(救う会) 結局、記者会見は匿名でということになり、そのため大きく報道されることもなかった。 母は私に『他人は勿論、親類、姉達にも一切話すな』とだけ私に命じた。(松木信宏さん) 1997年3月、家族会結成。しかし、松木家は2002年9月27日まで家族会には参加していなかった。 家族会連絡会が結成された時にすぐ一緒に運動したかったのですが、ちょうど母の具合が悪くなりまして。それとこれは今まで話したことがないのですが、警察から行動することを止められていたんです。お姉さんが出て行けば薫の命がないと。実は、警察は家族に疑いを掛けていたんですね。本当は薫の居場所を知っていて、連絡を取り合っているんじゃないかという風に。 2002年9月 、薫さん死亡と北は伝えてきた。 『私はその日は可哀想で母に会えなくて、次の日にいったんですよ。そしたら、薫のことを聞いた、と母が。 どきっとして。それは違う人よ、と母に言ったが、TVでやっていたと母が言う・・・。 2002年10月、政府調査団が松木薫さんの北朝鮮で撮影した写真と、96年に交通事故死したとされる「薫さんの遺骨」を持ち帰ってきた。不自然にも、遺骨は2回も火葬されたという。DNA鑑定は難しい。だが、日本には骨の形から鑑定する方法があった。この鑑定をしたのは、東京歯科大の橋本正次講師(法人類学)(藤田進さんや加瀬テル子さんの写真も鑑定)。橋本氏は上あごの骨の一部を独自に鑑定した。骨の写真を見た松木さんの姉の斉藤文代さんは「ほんの数センチの小さい物」と話す。生存時には歯が四本生えているだけの部分。丹念に調べると、歯根が埋まっている歯槽部分が浅く、骨も小さいことから高齢の女性のものと推測されたという。橋本氏は「歯槽膿漏(のうろう)になると、歯槽が浅くなる可能性もある」と考え、十月末、斉藤さんら松木さんの姉二人に歯形のエックス線写真の提供を依頼。歯の大きさは遺伝するが、姉二人の歯は大きく、歯槽も小さい骨が松木さんの遺骨とは考えられないと結論づけた。依頼を受けてすぐに病院でエックス線を撮ったという斉藤さんは「もしかしたら弟の骨ではという不安があったが、これで生存を確信した」と話す。 2002年10月8日、日本政府によって松木薫さんが「拉致認定」される。家族会にも参加した斉藤文代さん、松木信宏さんは各地で講演をするなど精力的に活動してきた。 実際、日本国内の 拉致と違いまして私の兄たちは、ヨーロッパから猿ぐつわをされて連れて行か れたという訳ではありませんので、ある意味だまされたという側面があります ので、自分たちの足で北朝鮮に入ったことは間違いないのでしょう。しかし、 そのような形で入りはしましたが、だまされたと気付いて帰りたいという状況 で、北朝鮮からはいそうですかと出してもらえるような状況ではなく、二十何 年も、帰りたいの帰れないという状況になっているのはやはり「拉致監禁」に なるのではないかなと私は思っております。だから、まぁ、どういう形でメン バーが言ってこようとも私らは全力でそれを払いのけていくつもりでおりま す。よく私が言ってるのは、自分たちの意思で北朝鮮に入った人間、自分で望んで 北朝鮮に入った人間がこうやって、北朝鮮と日本を行き来するようなことが出 来まして、自分の本意でない形で北朝鮮に入ってる人間が帰ってこれない。こ れは国内で拉致された方、拉致された可能性のある方含めて、そういう人たち が帰ってこれないというのは理不尽ではないか。あまりにも理不尽すぎない か、と思っております。(松木信宏さん) 2004年6月、母スナヨさんが危篤に。 『危なかったんですが、東京にいて、朝一番の飛行機で帰ってきたんですよ。 ここで、母には申し訳ないと思ったんですが、大きい声で、母に言ったんですよ。 “いままでこんなに苦労して薫を待ったのに、病気に負けたら薫が帰ってこない、薫が帰ってきてかあちゃんがいないと知ったら泣くよ”と言ったんです。おかげさまで回復して、ごめんね、と言ったら、「私が居ないと薫がかわいそう」と言う。 2004年11月15日、松木薫さんの遺品として北朝鮮からシナリオ一冊が提供された。松木信宏さんは、薫さんが北朝鮮で日本語を教える時に教材として使用していたとされる日本のドラマ「出航」のシナリオの写真を示しながら、「兄が北朝鮮側に託したのではないか。他の報告も『シナリオ』なのではないか」と疑問を呈した。 2004年11月。第3回日朝実務者協議で、政府調査団は「松木薫さんの可能性もある」遺骨を持ち帰った。しかし、遺骨を持ち帰ったことが公表されたのは17日。15日にはそれぞれの御家族へ個別説明がされているが、その際には「遺骨」のことは何も知らされなかった。 2004年12月13日、松木薫さんの可能性もあるとされた「遺骨」はDNA鑑定の結果、別人4名の骨であることが判明した。 |
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2004年11月18日 北朝鮮が代表団に遺骨 松木薫さんか 警視庁鑑定へ 二〇〇二年の日朝首脳会談後、日本側に北朝鮮側が提供した「松木さんの遺骨」はその後の鑑定で「別人」と判明。新たな遺骨も同じ場所で採取したとみられ、外務省は「松木さんのものかどうか判断できる可能性は低い」としている。 政府関係者によると、新たな遺骨は、〇二年に北朝鮮が提供したものと同じ容器に保管されていた残りの骨片。北朝鮮側から「埋葬地が豪雨で破壊された。広い範囲で採取したため複数の人の骨が混じった可能性がある」との説明があった。 さらに「松木さんとは別人」と判明した遺骨について「松木さんの骨だと断定して渡したつもりはない」と話していたという。 北朝鮮側によると、松木さんは一九九六年八月に死亡。〇二年には「再火葬した」としていたが、今回の協議では「転落した車が炎上し死亡後に土葬。土砂崩れで松木さんのものと思われる遺骨が発見され、火葬し保管した」と述べた。 やり方卑劣、許せない 松木薫さんの弟信宏さんの話 二年前に北朝鮮側が出してきた遺骨の残りのもので、実質的に鑑定が不能だろうと拉致被害者・家族支援室から連絡を受けた。家族にとっては二年前の鑑定結果がすべて。鑑定できないと分かっているものをわざわざ出してくるなんて、卑劣で許せない。(西日本新聞) |
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2004年12月13日(月) 北朝鮮提供遺骨 「松木薫さん」も別人 DNA鑑定結果 松木さんの姉齊藤文代さん(59)=菊池郡菊陽町=は「連絡は入っていないが、最初から別人と思っていたので、当然の結果。薫は生きているとの確信がますます強くなった」と話している。 夫とされる人物が保管していた「遺骨」として引き渡した横田めぐみさんのケースとは違うが、北朝鮮側の拉致被害者調査の誠意を疑わせる材料の一つといえる。 政府筋によると、北朝鮮側はこの骨について「豪雨で流された松木さんの埋葬地の土砂から採取した」と説明。「広い範囲で採取したため複数の人の骨が混じっている可能性がある」とも指摘していた。DNA鑑定の結果、複数の人間のDNAが検出されたが、いずれも松木さんとは一致しなかった。検出されたDNAには女性のものも含まれていた。 北朝鮮側は二〇〇二年の日朝首脳会談後も「松木さんの遺骨」として提供したが、その後の鑑定で別人と判明した。今回の骨は二年前に提供されたものと同じ場所で採取された骨片とみられる。
北朝鮮が拉致被害者横田めぐみさん=失跡当時(13)=とした遺骨が別人だったことが確認された八日、松木薫さん=同(26)=の姉齊藤文代さん(59)は「本人のはずがないと思っていたが、北朝鮮の誠意を欠いた行為は許せず、腹立たしい」と怒りをあらわにした。さらに齊藤さんは「私もそうだったが、横田さんの家族はめぐみさんの生存を信じながら、一方で『遺骨』を渡されて、悲しくつらい思いをしたと思う」と話した。(熊本日報) |
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2004年9月 北朝鮮が呈示した個別情報 | |
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2004年11月 外務省の個別説明 松木薫さん(第3回日朝実務者協議) | |
【北朝鮮側からの説明】
▽入国経緯 1980年留学と旅行のためにヨーロッパへ出発。スペイン・マドリードで石岡亨さんとともに北朝鮮の特殊機関工作員と接触、北朝鮮入国に同意。ユーゴ、旧ソ連を経由、80年6月7日、平壌に連れてきた。 ▽入国後の生活 80年6月から1カ月間、平壌市内のホテルに泊まった。80年7月から82年10月ごろまで平壌郊外の招待所で生活。82年11月ごろから96年7月ごろまで平壌郊外の招待所で日本語教育、資料翻訳に従事。 ▽死亡経緯 96年8月23日、両江道の革命史跡調査に行く途中、車が転落、火災事故で死亡。運転手は担当指導員。担当指導員と一緒に朝9時ごろ、平壌を出発、咸鏡南道に17時ごろ到着。車の状態がよくなかったので夕食後、車を乗り換え、20時ごろ出発。22時から23時ごろに死亡した、と認定。翌朝、人民軍の運転手が発見、郡の安全部に通報。 ▽遺体の処理 人民軍が用意したひつぎに死体を入れ、近くの墓地に安置。埋葬地は96年8月24日、北青郡梧坪里(土葬)。当初は誰かが火に焼けた死体を見て間違って火葬したと発言していたことが判明。2002年7月14日、北青郡人民委員会で豪雨で破壊された道路の被害復旧作業を行っていた際、一部の遺骨が発見され、松木さんの骨があると判断したため平壌に運ばせて火葬した後、彼の名前で保管。02年9月、日本代表団に本人の遺骨であるかどうか確実ではないと言いつつ提示。 ▽遺品 日本語教育のための教材として使われた劇のシナリオ「出航」および写真1枚。それ以外は死後招待所で焼却処分したため残っていない。 ▽手紙の投かん ウィーンで投かんされたものではなく、松木さんが既にマドリードで書いたものを関係機関の人間がウィーンに行って送付。 【証人からの聴取等】 ▽平壌市郊外招待所料理人(当時)から当時の生活状況に関する情報の聴取。 |
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