田中実さん
 
 電脳補完録

田中実さん

 

拉致:1978(昭和53)年6月

●田中実 (たなか みのる)
失踪時期 昭和24年7月28日
失踪当時の年齢 28歳
失踪当時の身分 中華料理店「来大」店員
失踪当時の住所 兵庫県神戸市東灘区(当時)
失踪当時の状況 田中さんは幼いころ両親と別れ、灘区の養護施設で生活。市立神戸工業高を卒業し、事務機器販売会社に勤務後、東灘区のラーメン店で働きだした。1978年6月6日、成田空港から出国。

平成17年4月25日、警察庁が「拉致」と認定。27日に日本政府によって「拉致被害者支援法」に基づき拉致認定。政府による拉致認定は2002年10月(曽我さん母娘、石岡亨さん、松木薫さん)以来、2年半振りで、認定者は11件16人(5人帰国)となった。

   
 
 
TBS「報道特集」《16人目の拉致被害者》(1)
TBS「報道特集」《16人目の拉致被害者》(2)
TBS「報道特集」《16人目の拉致被害者》(3)
田中実さんの拉致認定について(調査会)
 
   
 
   
 
警察庁発表文
                  平成17年4月25日
                      警察庁

   元飲食店店員拉致容疑事案(兵庫)について

【1】 被害者
 氏名:田中実
 年齢:28歳(当時)
 住所:兵庫県神戸市東灘区(当時)
 職業:元飲食店店員

【2】 事案の概要
 神戸市内の飲食店に出入りしていた被害者が、昭和53年6月、北明鮮からの指示を受けた同店の店主である在日朝鮮人により、甘言により海外へ連れ出された後、北朝鮮に送り込まれたもの。

【3】 拉致であるとの判断に至った理由
1、警察において、拉致容疑事案としているものは、そのいずれも、北朝鮮の国家的意志が推認される形で、本人の意思に反して北朝鮮に連れて行かれたものと考えている。

2、他方、本事案については、我が国からの出国の事実は確認されているものの、同人が欺罔・誘因により連れ出された状況や、同人について北朝鮮への移送が企図されていた状況について、従来の捜査では十分な証拠の収集には至っていなかったところ、近年における捜査を取り巻く諸情勢の変化を背景とした徹底した再捜査により、この度、複数の証人等から、同人が甘言に乗せられて北朝鮮へ送り込まれたことを強く示唆する供述証拠等を、新たに入手するに至ったものである。

3、こうして得た新証拠も含め、一連の捜査結果を総合的に検討した結果、警察では、本事案を北朝鮮による日本人拉致容疑事案と判断したものである。

【4】 捜査の経緯
1、本事案については、関係者が、雑誌記事等において、北朝鮮の工作組織が敢行した拉致事案であることを強く示唆しているところであるが、兵庫県警察では、それ以前より独自に情報を入手した上で、発生当時にさかのぼって関係者を割り出し、参考人からの事情聴取や、広範囲に及ぶ聞込み調査を実施した上、所要の裏付捜査を行うなど、北朝鮮による拉致の可能性を視野に、鋭意捜査を進めてきた。しかしながら、発生から相当の年月が経過していることなどから、当時の状況を把握することは困難を極めていたところである。

2、こうした中、平成14年9月、金正日国防委員長が、日朝首脳会談の席上で、日本人拉致を認め、謝罪して以降、拉致容疑事案に対し国民が高い関心を示すようになったほか、報道においても、拉致被害者やその可能性が指摘される失踪者について、大きく報じられるなど、捜査を取り巻く環境に大きな変化が生じた。

3、警察では、こうした状況を受け、拉致容疑事案の全容解明に向けて、昨年10月、全国の拉致容疑事案担当課長を招集した会議を開催するなどして、関係都道府県警察や関係部門が緊密に連携し、警察の総合力を発揮して捜査を推進してきたところである。

4、本事案についても、白紙の立場から、捜査事項の徹底した洗い直しを行い、関係者等と思料される人物から事情聴取を試みるなどしたところ、本事案を拉致容疑事案と判断するに足る具体的な供述を、新たに入手するに至ったものである。

 

田中実さんを拉致被害者と認定へ 2年半ぶり、16人目

 北朝鮮による日本人拉致事件で杉浦正健官房副長官と警察庁は25日、78年に消息を絶った神戸市の元ラーメン店員田中実さん(当時28)を新たに拉致被害者と判断したと発表した。警察庁は「甘言によって北朝鮮に渡航させられたことが、新たな証言でわかった」と説明している。拉致被害者支援法上の正式な拉致認定は、27日に開かれる関係省庁の連絡会議を経て、首相が決定する見通しだ。

 新たな拉致被害者の認定は、78年8月に新潟県佐渡島から拉致された曽我ひとみさん(46)と母ミヨシさん(当時46)、80年に欧州から拉致された松木薫さん(同26)と石岡亨さん(同22)の4人を02年10月に認定して以来。政府認定の拉致被害者は11件、16人(うち5人が帰国)となる。北朝鮮側は田中さんについては「入境が確認できない」と答え、拉致を否定している。

 田中さんは78年6月、成田空港から出国し、消息を絶った。元北朝鮮工作機関メンバーという男性(故人)が月刊誌「文芸春秋」97年1月号に「田中さんは工作組織メンバーのラーメン店主に誘い出され、ウィーン経由で連れていかれた」と手記を寄せたことで拉致疑惑が発覚。拉致被害者支援団体「救う会」関係者が元ラーメン店主ら2人を国外移送目的略取容疑で告発し、兵庫県警が捜査を進めていた。

 拉致被害者家族会の横田滋代表は「従来から政府認定以外にも拉致被害者はいる、と訴えてきた。政府は真相を究明し一刻も早く認定してほしい」とコメントした。
http://www.asahi.com/national/update/0425/TKY200504250188.html?t

 

 

  田中実さん拉致は、朝鮮労働党社会文化部指導の下にある工作組織「洛東江」のリーダー曹廷楽とメンバーの韓龍大という在日朝鮮人が、韓龍大が自ら経営するラーメン店「来大」の店員であった田中実さんを言葉巧みに騙して、成田からウィーンに出国させ、その後、北朝鮮に拉致したものである。

この経緯は、「洛東江」のメンバーでもあった張龍雲が「朝鮮総連工作員 ー『黒い蛇』の遺言状ー」で明らかにしている。

曹廷楽は現在、山形県に在住。韓龍大は青森県八戸市で中華料理店を経営している。

救う会兵庫は2002年10月、「韓竜大」(現在青森県八戸市に在住)を告発。
2003年7月には「曹廷楽」(現在山形県山形市在住)を兵庫県警に告発している。

告発状
 
 告発人 北朝鮮に拉致された日本人を救出する会兵庫県協議会
     代表 長瀬猛  副代表 岡田和典
 
 被告発人 韓龍大(元中華料理店「来大」経営)
      (元住所)神戸市東灘区北青木2-9-25

 被告発人は、次の通り国外移送目的略取の罪を犯していると認められますので、お取調べのうえ厳重に処罰して頂きたく告発致します。
 
<告発事実>
 被告発人は、田中実さん(昭和24年7月28日生まれ)神戸市兵庫区湊町1-264(昭和54年発行神戸市立鷹匠中学校同窓会名簿による)を、北朝鮮政府および朝鮮労働党の指示に基づき、国内外の協力者あるいは協力組織と共謀のうえ、昭和53年6月6日、詐術を用いて出国させ、同年オーストリア共和国のウィーンにて同人を行方不明に陥れ、かつひそかに北朝鮮国内に移送した(関係者の自供)ものである。
 被告発人は、現在に至る24年余月にわたり、北朝鮮当局あるいは朝鮮労働党が同人を監禁もしくは軟禁していることを秘匿し続け、もって同人の原状回復が不可能な状態に継続ならしめているものである。
 
<罪名及び罰条>
国外移送目的略取等 刑法第226条

写真週刊誌「フライデー」もこの2人を取材しており、二人とも工作組織「洛東江」の存在を否定しておらず、さらに曹は「田中さんは自分でJALに乗ってウィーンに行った」などと語っている。田中さんがJALを利用した事実は一般に公表されておらず、ボロを出した発言と言えるだろう。

昨年の11月30日から12月2日にかけて夕刊フジに連載された加藤昭氏の「衝撃拉致全貌」では、元工作員の証言として「3000万円は初耳だが、田中実さんを拉致した韓龍大が『報酬として現金1000万円を万景峰号の船内で受け取った』のは工作員中までは有名な話だ」と載っている。

これらの莫大な資金は、ではどこから出ていたのか。
「初めは(本国から)少し出たが、その後、『すべて現地調達せよ』という指令が出された。幸か不幸か、70年代の日本は総連系の商工人が多数存在し、中でもパチンコや不動産でボロもうけしている連中が山ほどいた。そうした商工人は『祖国のために寄付せよ』といわれれば、喜んで大金を差し出したし、朝銀も拉致工作の資金と知りつつ、巨額資金を流した」

張龍雲「朝鮮総連工作員 ー『黒い蛇』の遺言状ー」(小学館文庫)より
(三)日本人拉致事件の真相
  
韓龍大(ハンヨンダイ)の工作活動
 一九七二年の春に『洛東江』の初仕事をしたというのに、半年もすると私は 『洛束江』 の完全な構成員になっていた。曹廷楽に誘われて非公然運動に足を踏み入れた私だが、そのころは積極的に祖国統一のための活動を前線でしているという自負心が、全身を支配するようになっていたのである。
 曹廷楽はそんな私に対して『民団』に思想転換をするか、さもなくばいっそ「帰化」してさらに深い活動をしないかと持ち掛けてきた。
 深い活動とは、韓国や民団への潜入活動を意味する。
一度はそれを真剣に考えた。噂では、朝鮮総連系工作機関『大同江』の工作員のうち何人かはすでに日本人と結婚し、日本に帰化している者もいるという話を聞いていた。しかし、私の周囲の人間関係を考えるとき、そのような行動はマイナスのほうが多いと思えた。
 このころ、私は表の生活で金融業者として再出発を果たしていた。
 何人かの友人たちと一部の親族から少しずつ資金を調達して始めた金融業だったが、精神的に極めて悪い影響をもたらす仕事であった。今までの人間関係が完全にねじれてしまったのだ。
 しかも、その最初の客が韓龍大であった。彼は当時灘商工会の若い商工人の間で会長を務め、灘管内の顔役的存在だった。その地位を利用して、『洛東江』 の協力者を物色し得る立場にもいた。
 商いは東灘区で小さなラーメン店を営み、人物はいたって好人物であったが、競馬、マージャンなどを好んで資金繰りは常に苦しかったようだ。
 そんな彼に私は二百万円を貸しつけた。しかし、ギヤンプル好きの彼からその回収がうまくいくはずもなかった。
 ちょうどそのころ、曹廷楽は金正日の誕生日の贈り物としてオーディオセット一式を贈ることを指令してきた。当時、金正日はまだ一般的に知られておらず、彼が政治の表舞台に登場する準備の時期であった。
 後日、曹が自慢げに語っていたが、金正日が後継者として承認されるずっと以前に、彼は党中央から情報を得ていたそうだ。
 私は韓に貸しつけた金の回収方法として、このオーディオセットの支払いを彼に押しつけることにした。これを契機に曹と韓は急激に近づいていった。
 在日朝鮮人のほとんどは、党中央との関係が深まることを望んでいた。本当の政治的評価を得ることができ、また親族を朝鮮に帰国させている者なら、何かと便宜を図ってもらえたからだ。
 韓は私たちが党中央に近い位置にいることを察し、積極的に曹に近づいていった。
 韓がそのころよく口にしていた言葉が「何がなくても党中央」であった。
 しかし、韓はこの仕事を「革命」という認識でとらえず、権力の争奪戦ととらえ、思想、理論的な準備を無視して、とにかく実行を重んじていた。この考えが後日数かずの工作活動に表れた。
 曹は私には韓への指令内容をほとんど教えなかったが、曹自身の断片的な話と、後日、雪山開発で平壌を訪問したとき、ソン・イルポンから直接聞いた話を総合すると、韓は曹延楽の指令のもとで、次のような工作活動を機械的にこなしていたのであった。

非合法な出入国
 まず韓は、神戸大学のフランス文学の教授との関係を深めた。毎晩酒を共にし、家族ぐるみのつき合いを始めた。その日的は神戸大学に留学している韓国の留学生への工作である。しかし、その目的がどの程度達成されたかは、私にはわからない。
 韓の義父は、朝鮮総連東神戸支部の分会長を長く務めた、実直で知られる典型的な一世であった。金日成指導の下に祖国は統一されるものと心底から信じ、総連組織を末端で支えた、ある意味では最も大切に扱わなければならない在日朝鮮人の原点ともいえる存在だった。このような同胞たちは、思想信条を越えてわが民族の宝である。
 韓はこの義父の外国人登録証を、北朝鮮から日本に入った工作員に手渡していた。
しかも、この事件は日本の警察に発覚し、大きく報道された。私は新聞でこの事実を知った。
 「そこまでやるか」と彼の人間性を疑った。いくら祖国統一のための工作活動とはいえ、それはその道のプロがなす仕事であり、彼の義父のような好人物を、自分の仕事に利用することは、大いなるためらいがあってしかるべきであると思った。
 工作員といえども、「祖国統一という民族解放を求める、最も崇高な仕事に尽くす以上、人民と同胞たちに対する思いやりはどうしても守らなければならないはずである。それこそ、工作員であっても革命を志す者の最低のモラルである。
一九七五年ごろであったと記憶しているが、平壌で大規模なマスゲームが開催された。「第一回世界青年学生体育芸術大会」と称し、多くの在日同胞たちもその大会に参加した。
 韓は非合法な手段で平壌を訪問し、この大会を直接見学している。この件に関しては曹自身が私に詳細を語った。
 朝鮮と日本との往来は、万景峰一号を利用する訪問団と北京経由で行き来する二つのルートが一般的である。しかし、非合法ルートでは日本海を直接往来する。
 このルートには、工作船や潜水艦が利用されていた。上陸は南は兵庫県から北は新潟までの広範な範囲にわたる。当然日本の警察、海上保安庁もマークしているので、党中央は新たなルートの開発の研究を開始していた。その最初の試みとして、韓は山口県長門市近くの海岸から出国したのだった。
 曹と韓の二人は真夜中十二時、指定された場所に赴いた。海岸で曹が小石を拾い、二、三度石を打ち鳴らす。それを合図に、潜伏していた工作員が闇の中から現れた。
 工作員は、この行為が選ばれた者による崇高な革命任務であると教育されており、その行動は機敏で、訓練を受けたプロの手際が十分に感じ取れたそうだ。
 用意されたゴムボートで、沖合に待機している潜水艦に乗り込み、一路北朝鮮の江原道・元山に向かった。
 韓は滞在中、平壌の非公開招待所で暮らし、マスゲームは金日成の少し後ろの席から見学したという。
 さらに韓は現地で労働党に入党し、新たな任務を帯び、再び非合法で日本に舞い戻ったという。

田中実の拉致と日本人拉致誘拐事件
 そして韓は平壌訪問直後、日本人「田中実」を拉致誘拐した。
 日本人拉致誘拐は現在も大きな社会問題となっており、田中実以外に次の人々が拉致されたと思われている。拉致事件は一九七人年に集中している。

(中略・蓮池さんや地村さん等の拉致事件の概要が記されている)

 これ以外に新潟の横田めぐみさん、長崎の原赦晃さん、神戸の有本恵子さんなどが朝鮮に拉致された疑いが極めて強い。ある方の家族とお会いしたが、その無念を思うと自らを恥入ることしか私にはできなかった。

 話を戻そう。韓が拉致誘拐した田中実には身よりがない。幼いころ両親は離婚し、その後親とは一度も会っていない。
一九七人年六月六日、成田より出国した田中は、韓の経営するラーメン店で働いていた。彼は韓を兄とも親とも思い、なんでも相談していた。
 韓は彼を言葉巧みにオーストリアのウィーンまで誘い出している。ウィーンには北朝鮮の情報機関「ゴールデンスターバンク」があり、西側への窓口としての役割を果たしていた。
 ウィーンからモスクワまでは社会主義国家を経由した陸路で、そしてモスクワから平壌までは空路を利用した。
 ソン・イルポンはこの拉致事件を私が承知しているものと勘違いし、「田中実は平壊に連れてきた後、平壌の生活になじまなくてしばらく手を焼いたが、日本人と結婚させ子どもを一人もうけ、現在はやっと落ち着いている。職業はラジオ放送の翻訳の仕事をさせている。日本には安心するように伝えてくれ」と話した。
私は韓の店から田中が姿を見せなくなったことには、何の疑問もいだかなかった。
「どうせやめてどこかの店に移ったのだろう」と思っていたからだ。だからこの話を聞いて惜然とした。
「よくもまあこんなことにまで手を染めたものだ」とあきれかえった。この仕事は曹廷楽が手を回したものだということが明白であった。

粒致の中身−暴力的粒致と誘導
 日本人の拉致事件は一九七〇年代後半に集中している。これは金正日が対南工作を担当して以来のことである。
 日本人を拉致する目的は北朝鮮の工作員が日本人になりすまして、戸籍を取得し、日本人の正規のパスポートを手に、韓国に「侵入」するためである。そのほか、北朝鮮国籍では出入りできない世界の各国に自由に出入りすることもあった。
 現在まで十人の日本人が拉致されたと公には報道されているが、拉致対象者は事前に家族や親族関係を綿密に調査されるので、原則的には天涯孤独の者が狙われる。したがって拉致が表面化していない人も数多い。
 私はソン・イルポンに今までいったい何人の日本人を拉致したのかと問いただした。
「五十人か? 百人か?」
 私の質問にソン・イルポンは否定もせずただ黙って笑っていた。
 拉致された日本人がどのような待遇を受けているか、それを知る立場にはないが、思うに北朝鮮に連行してしまえば存在の必要性はほとんど消滅するだろう。
 しかし、一応金日成思想で洗脳し、朝鮮革命に利用しようとは目論んでいるようだ。その洗脳の程度に応じて待遇は異なり、あくまで頑として朝鮮になじもうとしない人たちは緩やかな軟禁状態に置かれているはずである。
 日本人拉致には暴力的な方法がとりざたされているが、先の例のように孤独な者を狙うので必ずしもそのような方法は主流ではない。むしろ言葉巧みに誘い出すほうが多いと思われる。
 田中の場合は、韓を全面的に信頼し、「普通なら入国できない朝鮮を特別に見せてやる」というような誘いをしたと推測される。
 また、金銭につられて北朝鮮に入った人たちも、かなりの数がいると思われる。私に対しても、似たような話は何件か持ち込まれた。
 出稼ぎに来ている日本料理の職人を何人か目撃したし、現地の人と結婚して所帯を持っている者もいた。
 もちろん日本人拉致のほとんどの目的は、日本人になりすまして韓国へ潜入することだが、別の目的を持った拉致や勧誘があったことも事実である。
一時平壌に外国人相手の料亭やバー、ラウンジを営業するため、東南アジアから多くの女性が来ていたことがある。彼女たちが金銭で雇われたのか、拉致されたのかは定かではない。

 北朝鮮の拉致誘拐のルートは、当初、もっぱら日本海沿岸が利用されていた。北は北海道から南は山口県に至る全地域が利用されたのだ。しかし日本海沿岸の警備が厳しくなるにつれて、そのルートは遠く太平洋側にまで延びて、豊後海峡を抜け瀬戸内海にまで入り込んでいる可能性がある。
 さらに一九八〇年代に入りヨーロッパ、束南アジアを迂回するルートもかなり利用されている。

 

■拉致被害者 田中実さん「北朝鮮に行く」 証言、政府認定の決め手

複数知人に失跡直前「仕事話」とだまされ

 十六人目の拉致被害者に認定された神戸市出身のラーメン店員、田中実さん=拉致当時(28)=が失跡直前、知人らに「手紙を北朝鮮に届ければ金になる」「北朝鮮で中華料理を作りに行く」などと告げていたことが九日、分かった。複数の知人が捜査当局の事情聴取に対し、証言した。田中さんが「北朝鮮に行く」と告白していたことが明らかになるのは初めて。政府が先月末、田中さんはだまされて北朝鮮に拉致されたと認定するに至った“決め手”のひとつとみられる。

 兵庫県警など捜査当局の調べでは、田中さんは神戸市東灘区のラーメン店に勤務していた昭和五十三年六月、当時の店主の男(64)から海外旅行に誘われ、成田空港からオーストリア・ウィーンに向けて出国。その後、行方がわからなくなった。

 平成九年になって、在日朝鮮人の非公然組織「洛東江」の元メンバー、張龍雲氏(故人)が「組織のメンバーだった元ラーメン店主が田中さんを海外に誘い出し、オーストリアで北朝鮮の組織に引き継ぎ、平壌に連れて行った」と暴露したことで拉致疑惑が浮上。しかし、失跡が「北朝鮮」と結びつく具体的な証言や証拠がみつかっていなかった。

 捜査当局は田中さんの当時の交友関係を洗い直す過程で、神戸市に住む親しい知人男性を突き止め、事情を聴いたところ、「マスター(元ラーメン店主)に頼まれた手紙を北朝鮮に持っていけば大金が手に入る」と打ち明けていたことが判明。別の知人には「北朝鮮で中華料理を作りに行く」と話していたことも分かった。警察庁は今年二月ごろ、報告を受けたという。

 捜査当局は、これらの証言などから目的地は北朝鮮と断定。田中さんの足取りや失跡前後の状況などから北朝鮮にはだまされて連れて行かれたと判断したとみられる。

 拉致被害者の中には同様に「もうけ話」や「仕事話」でだまされて連れ去られたケースがある。

 五十二年九月、石川県・宇出津海岸から拉致された東京都三鷹市の警備員、久米裕さん=同(52)=は、在日朝鮮人に「うまいもうけ話がある」と誘われ、同海岸に潜入していた北朝鮮工作員に引き渡された。また、大阪市の中華料理店員、原敕晁(ただあき)さん=同(43)=も五十五年六月、店の在日朝鮮人関係者に「新しい会社を世話する」と持ちかけられ、北朝鮮工作員、辛光洙容疑者(75)らにだまされて宮崎県・青島海岸から北朝鮮に拉致された。

 田中さんをめぐっては、拉致被害者・家族の支援組織「救う会兵庫」が、「洛東江」の元最高幹部とされたパチンコ店経営の男性(67)=山形県在住=が拉致を指示、元ラーメン店主の男が田中さんを誘い出した実行犯とみて、二人を国外移送目的略取罪で兵庫県警に刑事告発しており、県警は二人から任意で事情聴取を続けている。(産経新聞 5/10)

http://www.sankei.co.jp/databox/n_korea/nkorea_13_1.htm

 

   

金田竜光さんも

田中実さんと 同じ施設で育ち、中華料理店「来大」に田中さんを紹介した友人の金田竜光さんも行方不明となっており、同様の拉致と考えられる。金田さんは特定失踪者問題調査会が「拉致の疑いが濃厚」の1000番台としてリストアップしており、救う会兵庫によって2004年2月、兵庫県警に告発状が出されている(受理)。

1979年頃
●金田竜光
失踪時期 1979年頃
失踪当時の年齢 26歳くらい
失踪場所 神戸市灘区・東京?
失踪当時の住所 神戸市灘区
兵庫県神戸市に住んでいた昭和52年ごろ、田中実さん拉致の実行犯・韓竜大の経営するラーメン店「来大」に就職。昭和54年、ウィーンに行った田中実さんの手紙を受け取って渡航準備をするため東京に行ったまま失踪。

   
   

半径500mに6人

田中実さんのいたラーメン店のあった神戸市の阪急六甲駅の半径500m以内に6人の失踪者の生活拠点があったことがわかっている。田中実さん、金田竜光さん、有本恵子さん、秋田美輪さん、松本義明さん、加藤小百合さんである。このうち田中さん、金田さん、松本さん、加藤さんの4人は小学校も中学校も灘区内の同じ学校である。これだけ狭い地域に集中していることが偶然だとは思えない。北朝鮮による拉致は日本国内に協力者がいたはずで、神戸のこのあたりに協力者がいて何らかの拠点となっていた疑いが捨てきれない。