市川修一さん、増元るみ子さん | |
北朝鮮の発表:死亡 |
拉致:昭和53(1978)年8月12日 鹿児島県 |
昭和53(1978)年8月12日、鹿児島県日置郡吹上町の吹上浜に自家用車を残したまま拉致された。市川さんは当時23歳で鹿児島市の電電公社(現NTT)職員、増元さんは当時24歳で事務員。車はロックされ、助手席には増元さんの手提げバックとカメラが置いてあった。バックの中にはサングラス・財布・化粧道具などがそのまま残され、車内はまったく荒らされた形跡がなかった。なお、市川さんについては安明進氏が金正日政治軍事大学で何回も目撃し話をしたこともあると証言している。 警察庁が拉致事件と認定 |
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市川
修一(いちかわ しゅういち)さん 1954年10月20日生(現在48歳) 鹿児島県鹿児島市 行方不明当時 電信電話公社職員(23歳) |
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*1978年8月12日夕方、増元るみ子さんと「夕日を見に行く」と鹿児島県日置郡の吹上浜キャンプ場に行ったまま、行方不明となる。 |
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増元 るみ子(ますもと るみこ)さん 1953年11月1日生(現在49歳) 鹿児島県鹿児島市 行方不明当時 事務員(24歳) |
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*1978年8月12日夕方、市川修一さんと鹿児島県日置郡の吹上浜キャンプ場に行ったまま、行方不明となる。 * 朝鮮名は「ホ・ジョンシル」。 * 1978年8月から1981年8月まで、招待所で暮らす。市川修一さんとは別々の招待所だった。 * 1979年4月20日、同時に拉致された市川修一さんと結婚。同じ招待所に住むようになる。 * 1981年8月17日、心臓病によりファンヘ(黄海)北道リンサン(麟山)郡にて死亡したと伝えられる。 * 市川さんの死後は結婚してから住んでいた招待所にそのまま住んでいたという。 * るみ子さんの墓は、市川修一さんと同じリンサン(麟山)郡サンウォルリ(上月里)共同墓地にあったが、1995年7月の貯水ダム崩壊により流失したと伝えられる。 * 市川さんとの間に子供はなく、遺品もないと伝えられた。 * 北朝鮮への入国経緯は、「鹿児島県吹上浜キャンプ場で特殊機関工作員が語学養成のため拉致した」と発表された。 |
北朝鮮が呈示した個別情報 |
市川修一さん
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