田口八重子さん
 
 電脳補完録

北朝鮮の発表:死亡

拉致:昭和53(1978)年6月

昭和53(1978)年6月に東京高田馬場のベビーホテルに3歳と1歳の幼児を預けたまま拉致された。朝鮮語や政治の教育を受けた後、昭和56(1981)年7月から58(1983)年3月まで大韓航空機爆破事件の犯人金賢姫の日本人化教育係を勤める。北朝鮮では「李恩恵」と呼ばれた。
 昭和63(1988)年1月、金賢姫がソウルで行った記者会見によってその存在があきらかになったが、事件後2人の子供を養子として育てていた田口さんの兄と姉が子供への影響を考えて申し出ず、特定するのに時間がかかった。
 平成3(1991)年5月15日、埼玉県警は記者会見をして、匿名での報道を条件に「李恩恵」は埼玉県出身の田口八重子さんと判明したと発表し、「李恩恵が船で日本から引っ張られたと金賢姫に言っていることから、拉致の可能性も含め、刑事事件として捜査を行なう」と述べた。その5日後の5月20日から北京で開かれた第3回日朝国交正常化交渉の日本側は「李恩恵」の消息調査を求めたが、北朝鮮側は激しく反発した。第4回から第8回までの日朝交渉では日本側は本交渉ではなく次席代表同士の実務協議の場で持ち出し、真相の究明を求めた続けた。北朝鮮側はこれを不満として第8回交渉でそのことに言及すること自体認められないとして会談は決裂した。

警察庁が拉致事件と認定

   
   
田口 八重子(たぐち やえこ)さん
1955年8月10日生(現在47歳)
東京都豊島区
行方不明当時 飲食店店員(22歳)
   
 

* 1978年6月ごろ、仕事に向かうためベビーホテルに2人の子供を預けたまま行方不明になった。
* 1985年に起こった大韓航空機爆破未遂事件の犯人・金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚に日本語を教えた女性・李恩恵(リ・ウネ)の似顔絵が田口さんに酷似、会話内容なども田口さんの状況と合致していることから、北朝鮮に拉致されたことが発覚した。
* 東京の飲食店店員だった。
* 朝鮮名は「コ・ヘオク」。
* 1978年6月から1984年10月まで招待所で朝鮮語を勉強していた。
* 1984年10月19日、原敕晁さんと結婚。その後は主婦。
* 原さんの死から数日後の1986年7月30日、帰宅する途中ファンヘ(黄海)北道リンサン(麟山)郡のマシク嶺峠で乗用車とトラックの衝突事故で死亡したと伝えられる。
* 田口さんの墓は、リンサン(麟山)郡サンウォルリ(上月里)共同墓地にあったが、1995年7月の貯水ダム崩壊により流失したと伝えられる。
* 原敕晁さんとの間に子供はなく、遺品もないと伝えられた。
* 北朝鮮への入国経緯は、「1978年6月29日宮崎市青島海岸で工作員が接触した際に『3日程度なら観光がてら北朝鮮に行ってみたい』という意向を示したことから、特殊工作員が身分を偽装するのに利用するために連れてきた」と発表された。
* どう考えても子供2人を残したまま北朝鮮に行きたいなどと言うわけがない。

   

北朝鮮が呈示した個別情報(2002年9月)
 
(注)なお、李恩恵事件につき、北朝鮮側は、調査の結果、李恩恵なる日本人女性はいない旨発言。
  1.  朝鮮名:コ・ヘオク 女
  2.  1955年8月10日生 当時23〜24歳
  3.  本籍:埼玉県川口市
  4.  出生地:埼玉県
  5.  住所:東京都豊島区
  6.  日本在住時の職業:飲食店勤務
  7.  入国経緯:工作員が身分盗用に利用する対象者を物色中、1978年6月29日宮崎県宮崎市青島海岸で本人が共和国に3日程度なら観光がてら行きたいという意向を示したことから、特殊工作員が身分を偽装するのに利用するため連れてきた。辛光洙は関係がない。
  8.  入国後:1978年6月から1984年10月まで招待所で朝鮮語の習得、現実研究および現実体験をした。1984年10月19日、原敕晁さんと結婚。1986年まで家庭生活。
  9.  死亡経緯:夫の死亡(1986年7月19日)後、精神的衝撃を受けていたが、数日して安定して帰宅する途中、1986年7月30日、ファンヘ(黄海)北道リンサン(麟山)郡のマシク嶺峠で乗用車とトラックの衝突事故で死亡。この事故で、同人及び運転手を含む3名が乗用車で死亡、トラックの2人は重傷を負った。
  10.  遺骸:ファンヘ(黄海)北道リンサン(麟山)郡に墓があったが、1995年7月の豪雨でサンウォルリ(上月里)の貯水池ダムの堤防が壊れ、墓が流された。
  11.  遺品:なし
  12.  原敕晁さんと結婚するも、子供なし。原さんもリンサン(麟山)郡で病気で死亡。
  13.  事故での死亡者と生存者に関する書類が存在するが、今後、法的仕組みが出来た時点で証言と文書を提供することができる。

 
第3回日朝実務者協議での北朝鮮側の説明(2004年11月)
 

 【北朝鮮側からの説明】

 ▽入国経緯 身分盗用に利用する相手を物色していた工作員が「青島海岸まで行こう」と田口さんを誘引した上で、1978年6月29日、青島海岸から田口さんを連れてきて、海州から入境した。拉致の実行犯であるリ・チョルスは、92年夏死亡した。

 ▽生活経緯 78年6月から7月までの間、地方の招待所で休息。78年7月から79年11月までの間、平壌市内の招待所で生活。79年12月から84年10月までの間、平壌市郊外および地方の招待所で日本語教育に従事、84年11月から86年7月までの間、麟山郡の招待所で家庭生活。特に、81年から84年までの間は、横田めぐみさんと一緒に生活していた。夫の原敕晁さんが平壌の病院に入院してからは、田口さんも平壌郊外の招待所に移り、原さんを見舞った。そこで他の日本人と一緒にいた可能性もあると思う。原さんと結婚後の84年11月から86年7月まで麟山の招待所で一緒に生活していた。

 ▽結婚 84年10月19日に原さんと結婚。初めは、年の差が離れているためちゅうちょしていたが、何回か会ううちに結婚に同意。これは、調査委員会の人間が特殊機関内に入って、関係者から話を聞いた。

 ▽死亡経緯 夫の死亡後、精神的な慰労のため元山に行って休息をとった後の帰宅途中、86年7月30日、馬息嶺で軍部隊の車と衝突して死亡。

 ▽事故処理 軍が事故後被害者を引き上げ、元山周辺の郡病院へと搬送した。軍から連絡を受けた当該機関は、元山基地に指示を出し、ひつぎを移送する準備をさせた後、遺体の引き渡しを受けた上で葬儀を行い、夫の墓地がある麟山に合葬した。

 ▽遺体 95年8月18日、豪雨により麟山郡上月里の貯水池ダムが決壊したため、流出した。遺品は死亡当時に焼却された。

 ▽田口さんの朝鮮名 田口さんは北朝鮮に入国して以来、コ・ヘオクとの朝鮮名で通しており、他の朝鮮名はなかった。

 【証人からの聴取等】

 ▽695病院の元医師および麟山郡招待所の接待員から、当時の生活状況に関する情報の聴取を行った。

 ▽馬息嶺交通事故につき、道路管理人から事故状況について聴取。

 ▽物証 馬息嶺交通事故資料

 
救う会・家族会が疑問だとしている点
 
1) 上記の通り、「李恩恵は田口さんではない」という主張は我が国警察の捜査結果を否定する強弁ではないのか。

(2) 物証として提供された「マシク嶺交通事故資料」には手書きの説明文と略図しかなく、事故当時の現場や遺体写真などの物証が含まれていない。

(3) 拉致された時、海州から上陸したと説明されたが、地村富貴恵さんは「田口さんは南浦から上陸した」と証言している。

(4) 拉致した犯人も交通事故で死亡し、同じ車に乗っていた指導員と運転手も全員死んだとされ、具体的証言を聞く人物がいないとする報告は不自然ではないか。

(5) 2年前の説明では宮崎の海岸で工作員と出会ったことになっていたが、今回は「宮崎まで誘引された」と変更されているのは不自然ではないか。

(6) 同じく前回の説明では「トラックにぶつかった」とされていたが、今回は「軍部隊の車と衝突」と変更されているのも不自然ではないか。

(7) 拉致実行犯は92年夏死亡とあるが、客観的証拠がない。

★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2004.11.25-2)
http://www.sukuukai.jp/houkoku/log/200411/20041125-2.htm



田口八重子さん


会見する飯塚繁雄さんと耕一郎さん



27年目の笑顔


1977年8月撮影 この10ヶ月後拉致された。


八重子さんが拉致された当時の耕一郎さん
(1歳の頃)


兄・飯塚繁雄さんと妹・八重子さん



1987年12月15日 
ソウルに連行された金賢姫



李恩恵が田口八重子さんとわかった後
「悪魔のような」マスコミが押し寄せた



警察庁が発表した「李恩恵」と「田口八重子」の比較表(clickすると拡大画像)



田口八重子さんの結婚登録申請書
(北朝鮮が提出したもの)


田口八重子さんの死亡確認書
(北朝鮮が提出したもの)





新潟日報
田口事件 証言編 「今も待っている」

第1回 金賢姫の教育係
実母奪還へ第一歩 公の場で「長男です」

第2回 ベビーホテル
子ども残し突然失踪

第3回 加害者扱い
家族の力 子守り抜き

第4回 金賢姫へ手紙
母の思い出聞かせて

 

 



 

 

「母よ元気で」「金元死刑囚も犠牲者」田口さん長男会見
 78年に北朝鮮に拉致され、金賢姫(キム・ヒョンヒ)・元死刑囚の日本語教育係「李恩恵(リ・ウネ)」だったとされる田口八重子さん(不明当時22)の長男飯塚耕一郎さん(27)が、23日午後、東京都内で記者会見を開いた。耕一郎さんはこれまで、公の場に出たことはなかった。1歳の時に姿を消した母親への思いや、6年前、田口さんの長兄で育ての父親の飯塚繁雄さん(65)から母親について打ち明けられた時のことなどを語った。
 「田口八重子の長男です」。耕一郎さんは、報道陣のライトを浴びながら、ゆっくり言葉を選ぶように話し始めた。
 「今回(の記者会見)は勇気のいることでしたが、解決のきざしが見えないこの問題に、私なりに何かできないかと考えました」
 母親について「一片でも思い出をつかみたい」と思い、この日、金賢姫元死刑囚あての手紙を外務省に託した。「(李恩恵が)母と同一人物かどうか、お会いして確認したい」と書いたという。母への思いを問われると、「元気でいて下さい。心が詰まって、それ以上は何も言えない」と答えた。
 北朝鮮に対しては「悲しい国だと思う」。田口さんは死亡したと北朝鮮は発表したが、「確度のないものと信じている」とした。金元死刑囚については「怒りや憎しみは持っていない。彼女も利用された犠牲者だ」と述べた。
 繁雄さんに母親のことを打ち明けられたのは21歳の時。「何不自由なく幸せに育てられてきたので、衝撃はあったが、少しずつ事実を受け入れなければならないと思った」。同時に耕一郎さんは、事件をどう解決するべきかを考えるようになったという。だが、自分に大きな動きができるわけでもない。「もどかしい気持ちだった」と振り返った。
 真実を「告白」された後、繁雄さんへの気持ちが変わったかどうかとの質問も出た。この時、耕一郎さんは語気を強めて言った。「先ほどから申し上げている通り、飯塚繁雄は私のおやじです」 (朝日新聞04/2/23)


金賢姫様へ

前略
突然の手紙をお許しください。
私は田口八重子の長男の耕一郎と申します。
私の母であると言われている「李恩恵」について、お話を聞かせていただきたくペンを取りました。
金さんにとっては、もう思い出したくない話かもしれません。
しかし、私には母親の思い出がまったくないのです。
母が北朝鮮に拉致されたのは、私がまだ1年半のときでした。
母親の兄である飯塚繁雄に引き取られて二十五年、母のことは写真と養父から聞く思い出以外には何も知らずに生きてきました。
それまで、記憶にない母に対する感情は正直言って曖昧なものでしかありませんでした。抱いてもらった思い出も、叱られた思い出も何もないので、当然なのかもしれません。

二〇〇二年九月に、母の死亡という報道を海外出張先で知りました。
そのとき心が張り裂けそうな衝撃に駆られました。
どうしようもない虚無感に駆られ、涙を流しました。
そのときの気持ちはいまだに自分の中で整理できていないのですが、きっと自分の中に、二十五年ものあいだ触れることができなかった母親に対する感情がない、と知ったからだと思います。
私には、実母の写真を見ても、どのような声で、どのような笑顔をしていたのかまったくわからないのです。そんな母に対してどんな感情を持てばいいのかわからないのです。
ですから、金さんから母のことを聞いて、一片でも母の面影を自分の心の中にじかに焼き付けたい。
私はまず、このことから始めたいのです。
これから私が見るべき明日に向けて、そして未来の家族のためにも。
空白になっている母の面影を少しでもつなぎ合わせていきたいのです。

お忙しい中、このような手紙をいただき、ありがとうございました。
どうかご自愛ください。
また、乱文失礼いたしました。

敬具
飯塚 耕一郎



抱かれたことも覚えていないお母さんへ。

あなたが日本に帰って来たら、僕は、『よく帰って来たね。ご苦労さま』と言って出迎えてあげたい。あなたは、僕が一歳、姉が二歳半の時(1978年6月)、北朝鮮に拉致されて、四半世紀もの間、私たち二人の子供と再会できる日を信じて、一人で生きる道を選びました。さぞ、つらかったでしょう。どんなに悲しかったことでしょう。
僕は、27歳になりました。お母さんの長兄にあたる飯塚繁雄夫婦を実の両親と思い、四人きょうだい(二女二男)の末っ子として、分け隔てなく愛情を注がれて育ちました。伯母さん(繁雄の妹)に育てられた姉も元気です。お母さん、一日も早く帰って来てください。母や拉致された人たち全員が、一日も早く帰ってこられるよう強く願っています。

小泉首相が北朝鮮へ行かれてからの一年半の間、僕は、拉致問題が進展しないことにもどかしさを感じていました。先月の6カ国協議でも、拉致問題は議題にさえなりませんでした。
僕は、親父(繁雄氏)と相談し、以前からの父たちの活動を支えてくれていた米田(健三・前衆議院議員、現帝京平成大学教授)先生らのアドバイスも頂いて、世間に訴えるのは今しかないと思いました。ニュースかテレビ番組に出演したのをご覧になった方でしょうか、街ですれ違った方々から『頑張ってください』と声をかけられました。そのことからも、拉致問題を解決することが、国民の皆さんに支持されていることを感じました。
僕が今回、公の場に出てきたのには、もうひとつの目的があります。それは、母と2年近くも一緒に住んでいたという金賢姫さんに、会って母の話を聞きたいという手紙を出したことです。そのことも公にしたかったからです。母が拉致されたのは僕が1歳の時で、母に関する記憶がまったくありません。僕は父から、当時の母のことを聞いています。しかし、拉致されてからの四半世紀は、人間を変えてしまうには十分過ぎる時間です。だから、父から聞いた25年前までの田口八重子ではなくて、その後の母についての比較的新しい情報を知りたいのです。

僕が両親の実の子ではないと知ったのは21歳の時でした。勤務先に提出する戸籍謄本を取った時、僕の欄には『養子』とありました。
『何で今まで隠していたんだよ?』と親父に聞くと、自宅近くの寿司屋に連れていかれて、二人きりですべてを聞かされました。
それまでも、北朝鮮による拉致問題があるということを一般論としては知っていました。ただし、それはマスコミの向こう側の話で、まさか自分が当事者だとは思いもよりませんでした。
大韓航空機爆破事件の解明が進む中で、『李恩恵』=『田口八重子』とわかったのは、その7年前、僕が中学生の時だったそうです。それ以降、自宅や親戚にはマスコミによる大変な取材攻勢があったそうです。僕たちは拉致被害者の家族なのに、まるで大韓航空機爆破事件の"共犯者"であるかのように、家族や親戚は白い眼で見られたこともあったと聞きました。

しかし、父や母、家族、親戚は、誰も僕にそのことを気づかせませんでした。上に3人いたきょうだいにしても、僕が実のきょうだいでないことを知りながら、一切口にしたことはありませんでした。行方不明の"叔母"がいることさえ知らなかったほどです。
僕は事実を知ったショック以上に、この家族は《すごい人たちだ》と驚嘆させられました。こんな両親や家族、親戚を僕は誇りに思っています。

北朝鮮が発表した母に関する『死亡』情報は、当時勤務していたヨーロッパで、衛星版の新聞やインターネットで知りました。
『ホントかよ』と、にわかには信じられませんでした。すぐに自宅に電話をかけると、父は気丈でしたが、電話のむこうで母の泣いている声が聞こえてきました。父から『母さんに、ひと声かけてやってくれ』と言われて電話を代わりましたが、涙が込み上げてきて話しになりませんでした。

『死亡』の情報以後、無力感、虚無感、ショックが次第に大きくなってきました。同時に怒りが込み上げてきました。万が一、死亡が事実なら、拉致しておいてひどい話です。しかし、『死亡報告書』が偽りの積み重ねとわかった時、北朝鮮の報告に振り回されることは、相手の思うツボだと気づいたんです。
そして、飯塚家の親戚で会議を開き、父が『家族会』に入り、被害者の家族として世間に訴えることが決まりました。取材は、父が主に応対し、女性は嫁ぎ先に迷惑をかけられないので、前面には出ないことが決まったそうです。その後、父が家族会の副代表として、スイスの国連人権委員会やいろんな活動をしていることは、ヨーロッパの勤務先でも聞いていました。60代半ばなのに、アグレッシブな親父です。本当に頼もしい親父です。

田口八重子さんが日本に帰国したら、世間一般では"生みの母"で、いまの母は"育ての母"ということになります。しかし、僕にとっては二人とも実の母親で、区別することはできません。僕は、父と二人の母、きょうだい、そして心強い親戚がいて、本当にハッピーなくらいです。

僕は政治的なことはわかりません。母を拉致した実行犯も、ある意味では独裁国家という非情な組織の歯車のひとつなんでしょう。北朝鮮は悲しい国だと思います。僕は、一人の人間が人間として暮らせる平和な世界を望んでいるだけなのです。北朝鮮は、母を一日も早く返してください。母や拉致された被害者全員を、今年中に返してほしい。いつまで待たせればいいんですか・・・・



田口八重子さん27年前の笑顔
 北朝鮮に拉致された田口八重子さん=当時(二二)=の二十七年前に撮影された写真がこのほど見つかり、長男、耕一郎さん(二七)の手に渡った。母親の記憶がない耕一郎さんは「幸せな家族だったと分かってよかった。早く母を日本に連れて帰り、笑顔を取り戻してあげたい」と話している。
 耕一郎さんを引き取って育てた田口さんの兄、飯塚繁雄さん(六五)によると、子供と一緒の田口さんの写真が見つかったのは初めて。
 保管していたのは、埼玉県川口市のアパートで田口さん一家と親しかった主婦、奈良好子さん(五九)。今年二月に初めて記者会見した耕一郎さんが「母の思い出を一片でも欲しい」と訴えるのをテレビで見て連絡した。
 「若いお母さんだったけど、けなげに子育てをしていた。笑顔が印象的で料理上手でした」
 撮影は昭和五十二年八月。自宅でくつろぐ田口さん母子三人と奈良さんの子供たちが写っている。その後、夫と別れた田口さんは東京都豊島区の飲食店で働き始め、五十三年六月に一歳だった耕一郎さんと二歳の姉を託児所に残して拉致された。
 色あせた写真の中に初めて見た、母の笑顔。「失われた時間はもう取り戻せない。幸せだった家庭がなぜ突然なくなり、二十年以上も放っておかれたのか」。耕一郎さんは憤りを新たにするとともに、いつか飛行機のタラップを下りてくる母を迎える日が来るのを固く信じている。 (産経新聞2004/4/7)


田口八重子さん、マレーシア経由で拉致か
 拉致被害者で、北朝鮮側が「死亡」としている田口八重子さん(当時22歳)が失跡した当日、貿易代表団の一員として来日していた北朝鮮の特殊機関の幹部が突然、予定を早め、マレーシアに出国していたことが、警察当局の調べで新たに分かった。
 田口さんはだまされて、この幹部に国外に連れ出された疑いが濃厚で、警察当局は渡航経路の確認を急ぐ一方、今後の日朝交渉で、こうした疑いを提示し、真相解明を迫る方針だ。
 1987年11月の大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚の教育係「李恩恵(リ・ウンヘ)」だったとされる田口さんは、東京・池袋の飲食店に勤めていた78年6月30日、2人の子どもをベビーホテルに預けたまま姿を消した。
 北朝鮮当局は一昨年9月、日本政府の調査団に、「宮崎市の青島海岸から船で連れ出した」などと説明したが、その後の警察当局の捜査で、田口さんが宮崎に向かった形跡や、当時、九州南岸に不審船が接近していたとの情報は確認できず、この説明を裏付けることはできなかった。
 このため警察当局は、当時の全国の空港や港の出入国記録を洗い直す必要があると判断。その過程で、田口さんが失跡した数日前から、北朝鮮の在マレーシア大使館の2等書記官が貿易代表団の一員として来日しており、この書記官が田口さんの失跡当日、当初の予定を切り上げ、成田空港からマレーシアの首都クアラルンプールに出国していたことが判明した。
 また、田口さんが失跡の数日前、店の常連だった在日朝鮮人の男から、「いい仕事がある。3日で帰れる」と誘われていた、という新証言も得られた。
 警察当局は、「李恩恵=田口さん」と断定した91年5月当時から、この常連客が、「宮本明」と名乗る在日朝鮮人の工作員と同一人物ではないか、とみていた。
 さらに、米韓両当局からの情報で、在マレーシア大使館の2等書記官を身分として、極東地域の工作活動の責任者をしていた北朝鮮特殊機関の幹部が、「宮本」工作員とマレーシアで接触していたこともつかんでいた。警察幹部は、「その幹部が、田口さんが失跡したその日にマレーシアに戻ったという新事実が判明したことで、ようやく点と点が1本の線につながった」と指摘する。
 警察当局では、「宮本」工作員にだまされた田口さんは、偽造パスポートを渡されたうえで、この特殊機関の幹部とともにマレーシアに渡り、その後、北朝鮮に連れ出された疑いがあるとみて、当時の航空便の記録や、北朝鮮に入ったルートの確認を進めている。 (読売新聞2004/5/21)


田口さん入国経緯は虚偽? 地村さん証言と食い違い
北京で先月十一、十二日に行われた日朝実務者協議で北朝鮮側が伝えた拉致被害者の入国経路の調査結果の中で、田口八重子さん=拉致当時(二二)=の入国場所が、帰国した拉致被害者の証言と食い違っていることが十六日、分かった。二年前の日朝首脳会談で北朝鮮側が「死亡」や不明などとした十人の安否不明の拉致被害者について、金正日総書記は今年五月、「あらためて調査をやり直す」と約束したが、再調査でも信用できない説明をしていたことになる。
 北朝鮮側は北京での実務者協議で、田口さんの入国場所を、北朝鮮南西部の「海(ヘ)州(ジユ)」と伝えてきた。ところが、拉致直後から田口さんと同じ招待所で暮らしていた福井県小浜市の地村富貴恵さん(四九)は帰国後、田口さんの兄、飯塚繁雄さん(六六)に「八重子さんは南浦(ナンポ)港に連れてこられたと聞いた」と証言した。
 二年前の日朝首脳会談で、北朝鮮側は、日本政府が認める拉致被害者十五人のうち十人について「死亡」、「承知していない」と伝えてきたが、科学的根拠が一切なかったため、日本政府は再調査を要求。今年五月の二度目の首脳会談で金正日総書記はあらためて調査し直すことを約束した。
 これを受けた先月の実務者協議で、北朝鮮側は「調査は継続中」とし、拉致被害者らの入国経緯・場所のみを伝えたが、その説明にも信用できない内容が含まれていたことが表面化した形だ。飯塚さんは「北朝鮮がうそをついている一つの証拠」と反発している。(産経新聞2004/09/16)


田口八重子さんと横田めぐみさんの同居時期の説明で食い違い
 拉致被害者・田口八重子さんが横田めぐみさんと一緒に暮らしていた時期について、日朝実務者協議での北朝鮮側の説明が蓮池薫さんらの証言と異なることがわかった。
 北朝鮮側は「81年から84年まで」としているが、日朝関係者によると、蓮池薫さんらは「84年から86年まで」と証言している。北朝鮮側が説明した時期は、大韓航空機爆破事件の金賢姫元死刑囚に対し、「李恩恵」という女性が日本語を教えていたとされる時期と一部重なっている。
 家族会では、北朝鮮側が田口さんと「李恩恵」が同一人物であることを否定するために、時期を変えた可能性もあるとみている。(NNNニュース2004/11/20)


田口さんが金賢姫に日本語指導 地村さん証言
 北朝鮮による拉致被害者の地村富貴恵さん(49)が、田口八重子さん(行方不明時22歳)は大韓航空機事件を実行した金賢姫(キムヒョンヒ)元死刑囚の教育係の「李恩恵(リウネ)」であることを示唆する証言をしていることが、政府関係者の話で分かった。富貴恵さんは招待所で同居していた田口さんから「工作員に日本語を指導していた」と聞いたと話し、この工作員の名前が金元死刑囚の偽名とほぼ一致した。「李恩恵」と田口さんを関連付ける拉致被害者の証言は初めてだ。
 北朝鮮側はこれまで、大韓航空機事件への関与だけでなく、田口さんは朝鮮名で「高恵玉(コヘオク)」と言い、「李恩恵」とは無関係、と主張している。
 関係者によると、富貴恵さんは子供が帰国した今年5月以降、田口さんの兄飯塚繁雄さん(66)や政府関係者に対して証言している。富貴恵さんが78年7月に拉致された直後から招待所で一時同居していた田口さんから聞いた「オッカという工作員に日本語を教えている」との内容だ。
 富貴恵さんは「オッカ」という発音しか知らないとされる。これに対して、87年11月に起きた大韓航空機爆破事件の実行役の金元死刑囚は、韓国側の調べで、工作員として指導員から教育を受け始めた時に、今後は「金玉花(キムオッカ)」との偽名を使うよう指示された。金元死刑囚は「金玉花」の名前で、旅券を作成したことも分かっている。
 また、金元死刑囚に対して、日本語を教えたとされる「李恩恵」を名乗る日本人女性は、日本側の警察当局の調べで、金元死刑囚の供述などから田口さんであることが判明している。
 大韓航空機事件への関与を否定している北朝鮮側は、先月の日朝実務者協議でも、田口さんが横田めぐみさん(行方不明時13歳)と81年から84年まで一緒に生活していたと説明。金元死刑囚が「李恩恵」と同居して教育を受けたとされる期間と重なることから、家族会などは、横田さんの履歴を捏造(ねつぞう)して李恩恵を否定したと批判している。(毎日新聞2004/12/9)


工作員になってでも
これは田口さんの兄の飯塚繁雄さんらが、地村富貴恵さんから直接聞いたものです。それによりますと、田口さんは昭和53年6月に拉致されたあと、ピョンヤン市内で一緒に暮らしていた富貴恵さんに「工作員になってでも海外に出ていき日本大使館に駆け込もうと思っている」と打ち明けたということです。その後昭和60年ごろ、田口さんは再会した富貴恵さんに「オッカ」と名乗る女性工作員に日本語を教えていたと話したうえで「その女性工作員に『私も工作員になれるだろうか』と尋ねると絶対に無理だと言われ脱出を断念した」と話したということです。オッカという名前は、大韓航空機爆破事件の実行犯、キム・ヒョンヒ元死刑囚が自分の著作の中で、北朝鮮で偽名として使っていたことを明らかにしています。これについて飯塚繁雄さんは「日本に帰りたい一心で必死に脱出しようともがいていた姿を思うと不びんでならない。一刻も早く助け出したい」と話しています。拉致事件を巡っては25日、拉致被害者の家族会が外務省を訪れて早急な経済制裁などを訴える予定で、田口さんの家族も田口さんの早期救出を改めて強く求めることにしています。(NHKニュース2005/1/25)


子供がいるから帰して、田口さん訴えも
 北朝鮮による拉致被害者田口八重子さん(失跡当時22)が拉致された直後、「生まれたばかりの子供がいるから日本に帰してほしいと訴えたが聞き入れてくれなかった」と地村富貴恵さん(49)に話していたことが25日、分かった。田口さんの兄飯塚繁雄さん(66)が明らかにした。
 田口さんは1978年6月に拉致される1年ほど前に、長男の飯塚耕一郎さん(27)を出産している。
 繁雄さんが昨年6月、地村さんから聞いた話によると、田口さんは「生まれたばかりの子供がいる」と北朝鮮の担当者に自分の妊娠線まで見せて涙ながらに訴えたことを、拉致直後同じ招待所で暮らしていた地村さんに話したという。
 また田口さんは、北朝鮮が制作した映画で親子が登場したり、離れ離れになる場面を見るたびに泣いていたという。
 繁雄さんは「この話を聞いて耕一郎もいたたまれない気持ちだだったろう。生まれたばかりの息子と引き裂かれた妹の気持ちを思うとやるせない」と話した。(共同2005/1/25)

     

特別企画 家族のかたち
雑誌「家の光」より

実の子として育てた日々
飯塚繁雄(66) 飯塚栄子(61)

27年前、二人の子どもを残し、
突然いなくなった妹。
兄夫婦は残された子どもの
ひとりを「実の子」として育てる。
その後、妹は北朝鮮に
拉致されていることがわかり
子どもにも真実を告げることに・・・・
夫婦が語るその間の苦悩と、
妹に寄せる思い。

 

「お宅の妹さんが何日も無断欠勤をしています。」
妹、田口八重子の勤め先から突然電話があったのは、1978年、今から27年前の6月のこと。最初はなにがおこったのか状況がつかめませんでした。八重子は当時、夫と別れ、二人の子どもを育てるために東京・池袋のキャバレーに勤務していました。二歳半の長女と一歳の長男(耕一郎さん)をベビーホテルにあづけたまま、姿を消したのです。

自分の子どもは自分ひとりで育てる。そんな意思の強い妹でした。だから、子どもを置いていくなんて考えられません。二、三日もすれば戻ってくるだろう、と最初は楽観的に捉えていました。それが一週間たっても帰ってこない。トラブルにでも巻き込まれたのではないか。嫌な感じを抱いたのを覚えています。

私は7人兄弟の長男として、戦中戦後の食糧のない時代を必死で生きてきました。娯楽はなく、何事も我慢我慢の時代。一方、八重子は末っ子で昭和30年生まれ。私とは十七も年が離れています。親父が病気がちでしたので、あんちゃんあんちゃんといつも慕ってくれていました。

離婚したときには心配で、「昼間の仕事をしなさい」と言ったのですが、当時、女性が子どもを預けて働ける職場は水商売しかありません。いろいろと悩んだ上での選択だったと思います。二週間に一度は様子を見に行きました。勤め始めて二ヶ月、暮らしも落ち着き始めたころの出来事でした。(繁雄さん)

必死で仕事をして、子どもを育て生きてきました。
  そんな家庭にどうして・・・(繁雄さん)

そのころ私たちはすでに三人の子どもがいました。八重子さんがいなくなったこともそうですが、残された八重子さんの子どもを何とかしなくちゃいけない。私たちの子どもの分も含めて、ご飯食べさせなきゃ。ミルク飲ませなきゃ。必死でした。(栄子さん)

 

家族の一員として
    育てることに

 

その後、八重子さんの長女は繁雄さんの妹が引き取り、繁雄さん夫婦は長男の耕一郎さんと養子縁組をして、自分たちの子どもとして育てることになる。

 

子どもたちにも事情を話しました。「耕一郎はこれからお前たちのきょうだいとして生活する。ほんとうの子でないことは耕一郎が大きくなるまでは絶対に口にしてはいけないよ」と。子どもたちは、「うん、わかった」と素直に答えました。近所の人も気づいていたようです。妻のおなかが大きくならないのに、突然子どもが増えたのですから。

成人したら、耕一郎にこの事実を打ち明けるつもりでしたが、それまでは絶対に知らせてはいけないと思いました。多感な年代に事実を知ることで、自暴自棄になり、自分を見失ってしまうことが怖かったのです。三人のきょうだいはよく黙っていてくれたと思います。子どもだったら冗談で、「お前なんかうちの子じゃねぇ」なんて言っていってしまいそうですが、それだけは言わなかった。やはり子どもなりにいってはいけないことというのがわかっていたのでしょう。耕一郎が立派な大人に成長してくれたのも家族のおかげだと思っています。(繁雄さん)

「あの子はかわいそうな子だからこうしてあげよう」なんてことはまったく考えませんでした。子どもが四人もて、家のローンも抱えて、そんなことを考える余裕がなかったのも事実です。その分、私たちが一生懸命働く姿、生きている姿を見せてきたつもりです。そのことが耕一郎を育てる上でよかったんじゃないかと思っています。(栄子さん)

 

1987年11月29日バクダット発ソウル行きの航空機がミャンマー沖で消息を絶つ。いわゆる大韓航空機事件だ。経由地で飛行機を降りた日本人を名乗る男女二人が服毒自殺をはかり、男性は死亡、女性は未遂に終わる。取調べの結果、北朝鮮の工作員であったことが判明。生き残った金賢姫は、事件は工作員による爆破テロであったこと、日本人に偽装するために、北朝鮮で、「李恩恵」と呼ばれる日本人教育係りから日本語や日本の風習を学んでいたことを証言する。そして驚くことに、その「李恩恵」は八重子さんであったことが、明らかになる。

 

最初はそんな馬鹿な話があるかと思いました。そりゃぁ、八重子に関しては十年近くなにも情報がなかったのですから、信じろというほうに無理があります。それからは毎週のように警察からの事情聴取を受けました。そして、最終的には金賢姫が八重子の写真を指して「李恩恵」だと証言したので、事実を認めざるを得ませんでした。八重子は北朝鮮に拉致されていたのです。

さいわい耕一郎には知られずにすみましたが、マスコミの取材攻勢はひどいものでした。会社や親族の家まで押しかけてきて、事実と違うことや興味本位なことを書かれ、ひどくショックを受けました。八重子は無理やり連れて行かれて、なにも悪いことはしていない。わたしたち家族は被害者なのに、どうして世間から傷つけられなければいけないのか。腹立たしい日々が続きました。(繁雄さん)

 

養子って
    どういうことなの?

 

1998年9月、耕一郎さん21歳のとき、ついに真実を告げるときがくる。きっかけはパスポートの取得のために取り寄せた戸籍謄本の「養子」の記載だった。

 

「これってどういうことなの?」
耕一郎に尋ねられ、わたしはついにそのときが来たかと思いました。言おう言おうと思いながら、なんとなく話すタイミングを逃していたのですが、そのときはたまたま妻も出かけており、二人でじっくりと話すことができました。

耕一郎は最初、「へぇ、そなんだ」とそっけない反応でしたが、内心は穏やかではなかったようです。あまりに重大な話だったのでショックを受ける余裕がないという感じでした。時間をかけていろんな話をきくことで、これは大変なことなんだということをすこしずつ実感してきたのではないでしょうか。話の最後に私は言いました。「でも、おまえの父親と母親はこれからもわたしらだからね」と。(繁雄さん)

 

2002年9月17日、小泉首相が訪朝し、金正日総書記との日朝首脳会談が実現する。会談の結果、北朝鮮は拉致の事実を認め、五人の生存と八人の死亡を発表する。

 

「あきらめずに待っていてくれ」
なんとか妹にそう伝えたい(繁雄さん)

外務省から、携帯電話に連絡があったのは、ちょうど会社で仕事をしているときでした。それで「八重子は死亡した」という報告を受けたのです。

そのころ、耕一郎は出張でロンドンにいました。テレビの衛星放送で報道を見てすぐさま家に電話をかけてきました。
耕一郎の声は震えていました。日本から遠く離れた地で最悪の結果を知らされ、どうしようもないやるせない気持ちだったと思います。わたしと耕一郎が話している間ずっと、妻は隣で嗚咽していました。妻に受話器を渡しましたが、とても会話にならないようでした。

しかし、電話一本ではどうも納得がいかない。翌日、外務省まで出向き、一人で説明を聞きました。内容は、死亡したという事実だけで、証拠はなにもなく、説明もまったくありません。情報はまったくのでたらめとしか思えませんでした。

そのとき、わたしは決心しました。これまで家族の生活を守るために沈黙をしてきたけれど、このままでは何も進まない。家族会(「北朝鮮による拉致」被害者家族連絡会)に入り、世論に訴えていこうと。2004年2月からは耕一郎も家族会の一員として活動を始めました。拉致問題の解決の糸口が見えないなかで、「親父も疲れているだろう。少しでも補えるならおれも出るよ」と言ってくれたのです。出て行くには勇気がいったと思います。よく決意をしてくれました。

 

親子が抱き合う姿を
     一日も早くみたい

私たちは、必死で仕事をして子どもを育ててきました。「そんな家庭にどうして?」という思いは正直に言えばあります。また、日長実務者協議で、なぜ、八重子の情報が入ってこないのか、という苛立ちもあります。でも、一番つらいのは拉致された八重子本人です。北朝鮮で一人、「もうだれも迎えに来ないだろう」と、あきらめているんじゃないかと。「あんちゃんたちはぜったいにあきらめないぞ。取り返そうとがんばっているから待っていてくれ」、そのことを八重子に伝えることができたら・・・・。拉致被害者の家族には年老いている人がたくさんいます。私たちだって、もうそれほど若くはありません。でも、八重子が帰ってくる日までは倒れるわけにはいかないんです。(繁雄さん)

「ああ、今日も出張なんだ・・・」家族会の活動を始めてから夫が家を留守にすることが多くなりました。活動は夫が先頭に立ってくれていますが、気持ちはわたしも同じです。耕一郎がお母さんと抱き合う姿を一日も早く見たい。いま、心から願うのはそのことです。
(栄子さん)