横田めぐみさん Megumi Yokota
 
 電脳補完録

横田めぐみさんの写真

北朝鮮の発表:死亡

拉致:昭和52(1977)年11月15日 新潟市

昭和52(1977)年11月15日夕刻、新潟市の中学校から帰宅する途中で拉致された。この事件は平成8年10月号『現代コリア』に朝日放送の石高健次氏が寄稿した論文で言及されていた「中学校一年生の少女拉致」が端緒となり、同年末その少女が横田めぐみさんであることが判明、翌平成9(1997)年1月23日西村真悟衆議院議員(現自由)が政府に質問書を提出、さらに2月3日には予算委員会で質問し、橋本総理も調査中であると答弁した。
 政府は平成9年5月1日の参議院決算委員会の吉川芳男議員(自民)の質問への答弁を通じ北朝鮮による拉致事件として認定したことを明らかにした。アベック拉致と同様無線傍受などの情報によって特定したものと考えられる。この事件は当初工作員が海岸に来ためぐみさんに見つかり、工作活動が発覚するのを恐れて拉致したと言われていた(当初この情報をもたらした亡命工作員及び亡命工作員安明進氏が聞いた話)が、その後現場の状況の調査などから、遭遇ではなく自宅近くで待ち伏せされて(個人名を特定しない、「若い女性」などの指示による)拉致されたものと思われる。安明進氏の情報は北朝鮮の工作員養成機関「金正日政治軍事大学校」の教官から伝えられたものだが、安氏によれば、「想像だが暗くて年齢が分からず、拉致してみたら子供だったので、『見つけられたので拉致した』ということにしたのではないか」とのことである。

警察庁が拉致事件と認定

横田めぐみさんの写真
   

横田めぐみさんの写真横田(よこた) めぐみさん
1964年10月5日生
新潟県新潟市
当時 新潟市立寄居中学校1年生(13歳)
   
 

* 1977年11月15日、中学校の部活動を終えて下校中、新潟市内の自宅近くで友人と別れた後、消息を絶つ。
* バドミントン部に所属していた。
* 朝鮮名は「リュ・ミョンスク」。
* 1977年11月から1986年7月まで招待所で暮らす。
* 1986年8月13日、会社員キム・チョルジュ(現在41歳)と結婚。
* 1987年9月13日、娘キム・ヘギョン(現在15歳)が生まれる。平壌市内万景台区域タンサン(堂上)洞に居住している。
* 1993年1月29日、鬱病のため夫に連れられ平壌市スンホ(勝湖)区域49予防院に入院したと伝えられる。
* 1993年3月13日午前、同病院内で散歩中、南寿岩主治医が目を離した間に、着物を裂いて松にかけ首を吊って自殺したと伝えられる。
* 墓は死亡した病院の裏手にあったが、数年前に夫キム・チョルジュが移した。現在の墓の場所はわからないという。
* 北朝鮮への入国経緯は、「1977年11月15日、新潟市内で工作員が学校から帰宅途中のめぐみさんに会った。工作員は身辺の露出の危険性を感じ、露出を防ぐために同女を拉致した」と発表された。
* 一般的に北朝鮮の特殊機関は、所属に関係なく軍事化されており、命令を実行した者は責任を問わないことになっているが、本件の実行犯は命令なく恣意的に行動した者であり、職務停止処分を受けているという。
* 1988年頃から1991年にかけて金日成政治軍事大学において目撃したという証言があるが、北朝鮮側はこれを「事実無根」と否定している。
* 北朝鮮入国直後、曽我ひとみさんと同じ招待所で暮らしていた時期がある。
* 2002年9月17日、平壌で梅本和義駐英公使がキム・ヘギョンさんと面会した際に、めぐみさんのものとされるバドミントンのラケットが提示された。

   

 

北朝鮮が呈示した個別情報(2002年9月)
 
  1.  朝鮮名:リュ・ミョンスク
  2.  1964年10月5日生、当時13歳
  3.  本籍:東京都品川区
  4.  住所:新潟県新潟市 当時中学生
  5.  入国経緯:1977年11月15日、新潟市内で工作員が学校から帰宅途中の本人に会った。工作員は身辺の露出の危険性を感じ、露出を防ぐために同女を拉致した。特殊機関は、所属に関係なく軍事化されており、命令を実行した者は責任を問わないことになっているが、本件の実行犯は命令なく恣意的に行動した者であり、職務停止処分を受けている。
  6.  入国後の生活:1977年11月から1986年7月まで、招待所で朝鮮語、現実研究および現実体験をした。1986年8月13日結婚。
  7.  死亡の経緯:1993年3月13日、平壌市スンホ(勝湖)区域49予防院で精神病で死亡。
  8.  遺骸:墓のあったところは病院を通じて探している。
  9.  遺品:愛用のバドミントンのラケットと写真
  10.  家族:夫:キム・チョルジュ 41歳 会社員
        娘:キム・ヘギョン 1987年9月13日生、 中学生
        住所:万景台区域タンサン(堂上)洞
  11.  1988年頃から1991年にかけて金日成政治軍事大学において目撃証言があるとの話は事実無根であって虚偽の情報である。
  12.  18歳頃から精神的に不安定であったということについても根拠はない。結婚後、娘を産むまで精神的な所見はなかった。
    (なお、入国直後、招待所で曽我ひとみさんと一緒に生活していた事実がある。)

    (注)
     夫については、「政府関係者とは会う必要はないと思うが、両親が来た際には会えると思う」旨発言している旨代表団に説明があり、30日夕刻、同人からの書簡が代表団に手交された。
       
横田めぐみさんのバトミントンラケット写真    
横田めぐみさんの物として
捏造された死亡診断書
     

 

2004年11月 第3回日朝実務者協議を受けて、家族会・救う会が発表した疑問点
 
(1) 横田めぐみさんの夫とされるキム・チョルジュン氏からDNA鑑定を行うための血液・毛髪採取並びに本人特定のための有力な証拠となる写真の撮影が日本代表団側からの申し出にもかかわらず拒否され、本人確認・特定ができなかった。

(2) 横田めぐみさんの夫とされるキム・チョルジュン氏の再婚相手の子供でキム・ヘギョンさんの異母弟とされるチョルボンと称する男の子が横田めぐみさんの実の子供である可能性があるため、横田家は上記(1)同様血液・毛髪採取の要請をしていたにもかかわらずそれが実現されなかった。

(3) 2002年には、49号予防院にめぐみさんの死亡日時を覚えている人はいなかった、と説明しながら、今回なぜ、94年4月13日と死亡年月日を特定できたのか。特定したのは誰か。

(4) 夫とされるキム・チョルジュン氏は2年前の政府調査団にめぐみさんの両親への手紙を託した。その時なぜ、彼から死亡時期を確認しなかったのか。また、2年前には「遺骨は夫が持っていったまま」という説明だったが、2年前に夫から遺骨がどこにあるのか聞いていなかった理由は何か。

(5) 提供された3枚の写真のうち2枚は、めぐみさんと写真の背景に不整合な部分が多く、合成加工した痕跡がある。なぜ、写真を合成せねばならないのか。(写真の合成について

(6) 自殺に使った紐は事前に衣類を裂いて作った紐を用意していた、と説明されたが、いかにも不自然ではないか。

(7) 骨壺に入れて火葬した遺骨を自宅で保管するなどという習慣は朝鮮文化には全くない。また、わざわざ、自宅で保管したのなら、なぜ娘であるキム・ヘギョンさんは一切そのことを知らなかったのか。

(8) 北朝鮮では、土葬して2年半後の遺体はまだ白骨化しておらず、腐敗した肉が付いたすさまじい状態であるはずで、それを掘り出すことなど通常考えられない。

(9) 火葬するとDNA鑑定ができなくなることを知って、わざわざ火葬した別人の骨を提供したのではないか。

(10) もし最悪の場合であったとしたら、死亡時期と死亡理由が金正日政権の説明通りかどうかが大問題になる。骨相学鑑定では死亡時期は特定しにくい。彼らがそのことを知って、2年前に生きていためぐみさんを殺害した可能性すらありうる。

(11) 今回の協議でめぐみさんの死亡状況について、日本代表団は2年前に続いて再度「49号予防院」を訪れ担当医師と面談したが、この病院の医師らが死亡診断書と患者死亡台帳を捏造した本人だ。なぜ同じ人物から話を聞いたのか。今回の説明が真実だとなぜ分かるのか。

(12) 今回、「1981年から84年までは、田口八重子さんと一緒に生活していた」と説明されたが、田口さんは1981年7月から1983年3月まで金賢姫とともに暮らしていたことが金賢姫の証言で判明している。

(13) めぐみさんが金正日政治軍事大学内で目撃されたことを金正日政権は否定し続けている。ところが、今回提出されためぐみさんのモノクロ写真の背景は同大学の出版社前であると元工作員安明進氏が証言した。この証言が正しいなら、めぐみさんが同大学に出入りしていたことが証明される。

(14) 84年以降の報告がなく、いきなり93年4月以降入退院を繰り返し94年4月に死亡と報告するのは不自然である。

(15) 拉致実行犯は命令違反で職務停止になり、復帰後の2000年11月に脳出血で死亡と報告されたが、客観的証拠がない。

★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2004.11.25-2)
http://www.sukuukai.jp/houkoku/log/200411/20041125-2.htm


従来、家族会・救う会はめぐみさんの北朝鮮側情報について下記の点を矛盾点・疑問点として政府に提出していた。
(1)入退院台帳の表紙を青色の線で消し、死亡台帳と書き直している。
(2)入退院台帳の横田めぐみとされる女性の欄は「3−239」であり、通し番号であるのに次の行の男性と同番号。
(3)49号予防院でうつ病により自殺とあるが、同病院は一般人用で工作機関の中にいた横田めぐみが入院するはずはない。めぐみさんは18歳頃、工作員専用の第915病院に2回入院していたという情報がある。
(4)93年に死亡とあるが、「95年頃、金正曰の子息の家庭教師をしていた」等の目撃情報が複数ある。
(5)夫は朝鮮人と言うがその夫が現れないこと、また娘だけを出してくるのが不自然。

死亡日に関して
●北朝鮮側(2002年9月):1993年3月13日、平壌市スンホ(勝湖)区域49予防院で精神病で死亡
●安明進証言:1988年頃から1991年にかけて金日成政治軍事大学において目撃
●蓮池薫さん証言:「1994年まで平壌でめぐみさんの姿を見ていた」
●ジェンキンス氏証言:49予防院には外国人は入れない
●蓮池薫さん証言:「めぐみさんが94年(平成6年)に入院したのは(北朝鮮北西部の)義州の病院と夫(キム氏)から聞いた。」
●北朝鮮側(2004年9月):93年4月20日〜6月3日と、同年8月3日〜10月8日の2度にわたって入院していた。(93年3月の死亡を否定)
●北朝鮮側(2004年11月):94年3月入院、同年4月13日死亡
●北朝鮮側(2004年11月):「前日までは義州への入院を検討したが、少し様子を見るため、(平壌郊外の)49号予防院に入院させた」

めぐみさんの「夫」に関して
●蓮池薫さんが数年、同僚として働いていた。会社員。
●北朝鮮側(2004年11月):「自分は工作機関に携わる人間。微妙な立場にある。」
●「夫」キム・チョルジュン氏は、日本側代表団に対してDNA検査はもちろん写真撮影も拒否。今回、代表団の前に現れた「キム・チョルジュン氏」が、蓮池薫さん等が目撃していた「キム・チョルジュン氏」であるかどうか確定出来ない。

 

2004年11月第3回日朝実務者協議の際、北朝鮮から提出された横田めぐみさんの写真
     
横田めぐみさんの写真
横田めぐみさんの写真
横田めぐみさんの写真

 

第3回日朝実務者協議以後の報道・証言
 
遺骨は横田めぐみさんとは別人 政府確認
 北朝鮮による日本人の拉致問題をめぐる第3回日朝実務者協議で、政府調査団が平壌から持ち帰った横田めぐみさんのものとされる「遺骨」について日本政府は8日、DNA鑑定により別人のものと確認した。政府は同日中に北朝鮮側に鑑定結果を伝え、「極めて遺憾だ」と強く抗議する。与党内に北朝鮮側の対応に強い不満が出ることは確実で、経済制裁を求める声が強まりそうだ。
 細田官房長官は8日午後の記者会見で「非難せざるを得ない。平壌宣言の精神に反するものであることは明らかだ」と語った。経済制裁については「他の資料を精査中で、その鑑定結果を待って対応を検討したい」と語り、残る12.5万トンの食糧支援についても「さらなる支援を行うのは難しい。ただちに北京ルートで(北朝鮮に)抗議する」と述べた。
 遺骨の鑑定は帝京大学法医学研究室が担当。その結果、遺骨は複数の人のDNAが検出され、いずれもめぐみさんのDNAとは異なった、という。
 遺骨は11月9日から14日まで平壌で開かれた日朝実務者協議で、めぐみさんの夫とされるキム・チョルジュン氏が提供した。めぐみさんについて北朝鮮側は93年3月に平壌市内の病院でうつ病で自殺したと説明していたが、第3回協議で「94年3月に入院し、4月に死亡した」と死亡時期を訂正していた。
 北朝鮮側の説明によると遺体は埋葬されていたが、夫とされるキム・チョルジュン氏らが96年秋に掘り起こし、焼いて骨つぼに入れたという。
http://www.asahi.com/national/update/1208/019.html


横田めぐみさん:「夫」の試料はDNA鑑定不可能

 先月の日朝実務者協議で、政府代表団が面会した横田めぐみさんの夫だったキム・チョルジュンと名乗る男性について警察当局は、政府代表団が持ち帰ったこの男性の試料をDNA鑑定した結果、「鑑定は不可能」との結論を出した。代表団は持ち帰った試料を明らかにしていないが、男性は毛髪や血液など鑑定が可能な材料の提出を拒否していた。(毎日新聞


めぐみさん 工作員?に日本語指導 地村富貴恵さん証言

 帰国した拉致被害者、地村富貴恵さん(49)が、横田めぐみさん=拉致当時(13)=について、「『スクヒ』という女性に日本語を教えていた」と証言していたことが十日、分かった。「スクヒ」。北朝鮮の工作員のなかには同じ発音の女がおり、この「スクヒ」も工作員との見方が強まっている。また、周辺を探ると、「北」が隠す工作機関との接点も浮上する。
 関係者によると、地村さんは拉致被害者家族らと面会、「スクヒ」の名前を口にした。地村さんはこの女性の素性はよく知らないとみられる。
 地村さんは田口八重子さん=同(22)=についても「『オッカ』という女性に日本語を教えていた」と証言していることがすでに明らかになっている。
 「オッカ」は大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫元死刑囚(42)の偽名「金玉花(オツカ)」と一致する。証言は「田口さんは金元死刑囚の日本人化教育係『李恩恵』に間違いない」との日本の捜査を裏付ける。
 一方、韓国当局の調べなどによると、金元死刑囚は工作員養成機関「金星政治軍事大学」(九二年に金正日政治軍事大学に改称)でもう一人の女工作員と一緒に一年間、訓練を受けた。その工作員が「金淑姫(スクヒ)」だ。
 金元死刑囚は自叙伝「いま、女として」(文芸春秋)で、この工作員のことをつづっている。
 《年は淑姫のほうが一つ下でしたが、非常に勉強好きで、プライドが高く、私たちは通ずるものがありました》
 めぐみさんについては「九五年ごろ、金正日総書記の子息の家庭教師をしていた」との亡命者情報もあるが、地村さん証言や金元死刑囚の話などを総合すると、工作員にも日本語を教えさせられていた可能性が高い。
 同大は「695部隊」の隠語で呼ばれ、原敕晁さん=同(43)=を拉致した実行犯、辛光洙容疑者(75)も訓練を受けた。「北」はその存在を認めていないが、元工作員の安明進氏(36)は同大で訓練を受けたとしている。
 めぐみさんを除く七人の「死亡報告書」を作製した「695病院」も同大の付属医療機関だ。工作員や工作機関と、被害者が置かれた状況も密接につながっている。(産経新聞)


【証言】

・富貴恵さんは「84年秋から86年7月まで田口さんと平壌市郊外の同じ地域に住んだ。田口さんの招待所にめぐみさんも同居していた」
・証言では、84年から86年に地村保志さん(49)一家と蓮池薫さん(47)一家、田口さん、横田さんが平壌市郊外の同じ地区に住んだ。86年7月に地村さんと蓮池さん一家が平壌市の別の地区に転居。間もなく結婚した横田さん一家も近くに移ったという。
・90年代に入ると、横田さんはしきりに「日本へ帰りたい」と訴えた。蓮池さんは「あともう少し。我慢して」と励ましたという。「脱走」を図り、2度目の時に保護され「精神が不安定で入院が必要だ」と判断された。蓮池さんは94年3月、義州の精神病院に入院する準備を手伝ったという。(毎日新聞
・横田めぐみさん=同(13)=について、「北」は十一月の日朝実務者協議で「一九八一年春から八六年までの間、平壌郊外の招待所で日本語教育に従事し、八一年から八四年まで田口さんと一緒に生活していた」と説明したが、蓮池薫さん(47)と地村保志さん(49)が「招待所に引っ越してきたのは八六年八月」と証言している。(産経新聞


拉致被害者6人 工作員村に

これは、帰国した蓮池薫さん夫妻と地村保志さん夫妻が、安否がわかっていない横田めぐみさんや田口八重子さんの家族に話した内容から明らかになったものです。それによりますと、蓮池さん夫妻と地村さん夫妻、それに、横田めぐみさんと田口八重子さんの6人は、昭和50年代の前半に北朝鮮に拉致されたあと、昭和54年以降、相次いでピョンヤン市の南東にあるチュンリョンリと呼ばれる山あいの地区に集められたということです。この地区は、北朝鮮の工作員や監視の担当者などしかいない、いわば“工作員村”で6人は、工作員といっしょに暮らしながら日本語教育にあたらせられたということです。このうち横田めぐみさんと田口八重子さんは、北朝鮮の女性工作員と同じ住居で生活しながら日本語を教えさせられたほか、めぐみさんは、のちに夫となる男性工作員の日本語教育にもあたらせられたということです。また、この地区では、日本人だけで会うことは禁止されていたということで6人は、ここに昭和61年までいたあと、ピョンヤン市などに移されたということです。拉致被害者が拉致されてしばらくたったあとに、どのような生活をしていたかは、これまでほとんどわかっておらず、北朝鮮国内で1か所に集められて工作員教育にあたらせられていた実態が初めて明らかになりました。これについて、横田めぐみさんの母親の早紀江さんは「監禁された生活の中で工作員教育に利用されていたと思うと本当にかわいそうだ。拉致被害者は北朝鮮が計画しているなかで生きていくしかなかったわけで、本当に許し難い恐ろしいことが行われていたと思う」と話しています。(NHK)


 

横田めぐみさん「夫」は拉致韓国人 DNA鑑定で判明 
 

 北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの夫とされる人物が韓国人の拉致被害者である可能性が指摘されていた問題で、日本政府は11日、めぐみさんの娘、キム・ヘギョンさんと韓国の拉致被害者である金英南(キム・ヨンナム)氏が父子関係にある可能性が高いとするDNA鑑定の結果をまとめた。政府は今後、北朝鮮側にこうした結果を伝え、改めて被害者の帰国や真相の究明などを求める方針だ。

 日本政府は2月、韓国側の協力を得て77〜78年に北朝鮮に拉致されたとみられる男性5人の家族から血液、毛髪などを採取。キム・ヘギョンさんのDNA情報と符合するか、二つの大学に鑑定を依頼していた。この結果、両大学の鑑定結果は金英南氏の可能性が高いことで一致したという。

 この鑑定結果を受け、政府関係者は、来日中の北朝鮮の金桂寛(キム・ゲグァン)外務次官らと改めて日朝協議を行う可能性がある、と指摘した。政府は北朝鮮側に直接鑑定結果を説明し、拉致問題での厳しい国内世論を伝えることで、北朝鮮側の前向きな対応を促したい考えだ。

 めぐみさんの夫とされる人物については、「キム・チョルジュン」と名乗る男性が04年11月に日朝実務者協議のため平壌を訪れた日本政府の代表団メンバーと面会。めぐみさんの遺骨とされるものを代表団に提供したが、日本側の鑑定で遺骨は別人のものだったとの結果が出た。この男性と金英南氏が同一人物であるかどうかの確認も、できていない。

    ◇

 DNA鑑定で横田めぐみさんの娘キム・ヘギョンさんの父親である可能性が高いと判明した金英南(キム・ヨンナム)さん(44)は78年、友人と海水浴にいった韓国南部の島で行方不明になった。北朝鮮に拉致されたことが工作員の自供でわかって以来、母親は我が子の帰りを待ち続けている。

 「生きているのなら、会いたい。どれだけ北で苦労をしたことか」。韓国全羅北道(チョル・ラ・プク・ト)・全州(チョン・ジュ)市に住む英南さんの母、崔桂月(チェ・ゲウォル)さん(78)はしわの刻まれた顔でつぶやいた。

 78年8月。高校1年生だった英南さんは、友人数人と当時住んでいた全羅北道・群山(クン・サン)市から沖合の仙遊島(ソニュド)に海水浴に出かけ、ある夜、こつぜんと姿を消した。

 警察に届け、付近を徹底的に捜索したが、結局、見つからずじまい。「遺体」も上がらなかった。水死したとあきらめ、服や愛用品も「火葬」した。

 97年、情報機関の国家安全企画部(現・国家情報院)は、スパイ容疑で逮捕した北朝鮮工作員の供述から英南さんが北朝鮮に拉致されていたことが判明したと発表。数年前に同様の情報を知らされてはいたが、改めて生存の可能性が浮上した。

 77〜78年、英南さんを含め3件、5人の高校生が連れ去られた。

 北朝鮮工作員に韓国事情を教育する「教官」として働かされていたと聞かされたが、詳しいことは何もわからなかった。いつしか忘れ去られつつあった英南さんに改めて注目が集まったのは、めぐみさんの夫と同一人物である可能性が高いと指摘された昨年になってからだ。

 日本政府の担当者が2月16日、崔さんを訪ね、血液と毛髪を採取。DNA鑑定でめぐみさんの娘、キム・ヘギョンさんと親子である可能性があるとされた。活発だった英南さんの面影と、めぐみさんの夫の姿が重なり合わない。

 韓国だけでなく、日本にも拉致被害者がいることを最近、知った。突然、子どもを奪われた悲しさと悔しさ、不条理さは、横田滋さん夫妻ら日本の被害者家族も自分たちも同じだろうと思う。

    ◇

〈横田めぐみさん拉致問題〉 77年11月15日夕、新潟市立寄居中1年だった横田めぐみさん(当時13)がバドミントンの部活動後に帰宅中、行方を絶った。97年2月、めぐみさんは北朝鮮に拉致された疑いがあることが、報道と国会質問で発覚した。

 北朝鮮は否定していたが、02年9月17日の日朝首脳会談の際に拉致を認め謝罪したうえで、めぐみさんを含む8人は「死亡した」と伝え、娘キム・ヘギョンさん(18)の存在を伝えた。

 北朝鮮側は02年9月に訪朝した政府調査団に対し、めぐみさんは「入院した後自殺した」と述べた。しかし死亡時期をめぐって説明が転々としたうえ、04年11月に日朝実務者協議のため訪朝した政府代表団に対し、死亡確認書などの書類についても捏造(ねつ・ぞう)したことを認めた。

 このとき、夫のキム・チョルジュンと名乗る男性が「横田めぐみさんの遺骨」とされる骨を日本側に渡したが、日本政府は鑑定の結果「別人のDNAが検出された」として別人と断定。北朝鮮側はこれに反論し、遺骨の返還を求めている。

http://www.asahi.com/national/update/0411/TKY200604110219.html

 
 
【横田めぐみさんに関する記事(電脳補完録内)2005年以降】
   
 

横田めぐみさん 「私は空き地に隠れていた人間に拉致された」
蓮池さん夫妻「ヘギョンさん一時預かる」
北朝鮮が遺骨問題で反論 疑問3点を提起
曽我ひとみさんの足のけがを気遣った横田めぐみさん
「遺骨」鑑定結果、北が「議論拒否」回答 「勝手にしろ」
めぐみさんに新たな疑問
めぐみさん入院で蓮池さん証言 北の説明と別病院
めぐみさんに望郷の思い
「招待所」は7戸、平壌郊外に 新証言
横田めぐみさん、招待所の3号舎に
めぐみさん拉致直前、近所の女子高生にも尾行
辛光洙がめぐみさんと曽我さんの教育係 曽我さん証言
めぐみさん「家の近くで男に捕まった」曽我さんに語る
めぐみさん等6人 工作村に
ジェンキンス氏「めぐみさん」で新証言
スクープ!めぐみさんの"夫"も韓国人の拉致被害者
「めぐみさんの夫は韓国人拉致被害者」…韓国家族会
横田めぐみさん「夫」は拉致韓国人 DNA鑑定で判明
めぐみさんの夫は金英男氏−DNA鑑定結果横田家に
横田めぐみさん写真展、累計来場者数10万人突破
「夫」名乗る男性、謎深く
<めぐみさんの夫は拉北韓国人>外交部「事実確認後、対策用意」
横田早紀江さんの陳述書全文
海を越えたブルーリボン 早紀江さんの訪米(上)
海を越えたブルーリボン 早紀江さんの訪米(下)
横田さん、キム・ヨンナム氏家族と面会
横田めぐみさんの娘 名前は「キム・ウンギョン」(ANN)
韓国側鑑定でも“夫”と結論
横田早紀江さん、めぐみさん「夫」の母と対面

   
   
   
     
 
     
1977 10月5日 めぐみさん、13才の誕生日
  11月15日 下校中の午後6時35分頃、自宅近くで拉致
「バドミントン部の練習の帰りに、家の近くの曲がり角で男の人に捕まえられた行かれた。すごく恐ろしかった」とめぐみさんが語る。「拉致したのは自分だ。自分が連れてきた」と辛光洙が語る(曽我証言)
1978 8月5日 17才の高校生、金英男さんが韓国西海岸の海水浴場から拉致
  8月18日 平壌の招待所で曽我ひとみさんに初めて会った時「にっこりと笑って迎えた」(曽我証言)
  12月

平壌の招待所に曽我ひとみさんと同居。辛光洙から朝鮮語や歴史、物理や数学などを習う(曽我証言)

1979   平壌の招待所で曽我ひとみさんと7ヶ月間同居(曽我証言)
1980 5月か6月 平壌の招待所で曽我ひとみさんと最終的に別れる(曽我証言)
1981   田口八重子さんと84年まで同居(北朝鮮発表)
田口八重子さんは81年7月から83年3月まで、金賢姫と同居していた(金賢姫証言)
1984 9月13日 平壌市チュンリョンリの招待所1地区3号棟に田口八重子さん、女性工作員の3人で同居(蓮池薫証言)
スクヒという女性に日本語を教えていた(地村富貴恵証言)
1985 年末 チュンリョンリ1地区の日本人拉致被害者は全員が2地区に移動(蓮池薫証言)
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     

 


横田めぐみさんの写真