資料

拉致ヒステリーの落とし穴
 

拉致ヒステリーの落とし穴
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被害者の帰国から1年
拉致問題の解決だけにこだわり続ける姿勢が外交をゆがませている
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横田孝、久保信博(東京)
デーナ・ルイス(ワシントン)


 北朝鮮との国交正常化交渉を再開させて、東アジアに平和と安定をもたらす――昨年9月17日、平壌を訪れた外務省の田中均アジア大洋州局長は壮大なプランを描いていた。
 この日、小泉純一郎首相が金正日(キム・ジョンイル)総書記との首脳会談に臨むことができたのも、田中が水面下で北朝鮮と30回以上の交渉を重ねてきた成果だった。日本の外交当局は、この歴史的な会談が北の軍事的脅威を除く重要なステップになることを期待していた。
 だが金正日が13人の日本人を拉致した事実を認め、そのうち8人は死亡したと小泉に伝えると、平和への希望は吹き飛んだ。日本中が怒りを爆発させ、田中は交渉の一線からはずされた。田中は独断で北に妥協したとして、「国賊」というレッテルを張られた。
 今年9月には、田中の自宅前に爆発物が仕掛けられるという事件まで起きた。タカ派として知られる東京都の石原慎太郎知事は、事件後にこう語った。「田中均という奴、今度爆弾仕掛けられて、あったり前の話だ」
 日本が怒りをいだくのも無理はない。独裁国家が10代の少女を含む多くの市民を拉致したという事実は、人権と国家主権に対する重大な侵害にほかならない。問題は、怒りによって外交政策が有益なものになりうるのかどうかだ。
 昨年10月15日に5人の拉致被害者が帰国してから1年。日朝間の緊張は、これまでにないほど高まっている。北朝鮮は今も5人の被害者を自国へ戻すよう主張して譲らず、先週には核問題を話し合う6カ国協議から日本を「排除」すると一方的に宣言した。
 核開発を放棄しない北朝鮮とアメリカの関係は打開の糸口さえ見いだせず、中国は北から大量の難民が押し寄せることに神経をとがらせている。にもかかわらず、日本は「拉致」というたった一つの問題にこだわり、北に敵対的なメッセージを送り続けている。
 ここへきて、そうした姿勢に疑問を投げかける見方も出てきた。日本の強硬姿勢はなんの成果ももたらさず、むしろ日本がこの地域に平和をもたらす役目を務めようとするうえで障害になっているのではないか、という見方だ。
 拉致一色に染まった日本の世論は「対北朝鮮政策において政治的な足かせになっている」と、戦略国際問題研究所(ワシントン)のウィリアム・ブリアは言う。「北朝鮮の側から突破口が開けないかぎり、日本政府が大きく踏み出すのは非常にむずかしい」
 日本が核問題を無視しているわけではない。だが日本は、北に残る拉致被害者5人の家族が帰国し、死亡したとされる8人の被害者の詳細が明らかにされないかぎり、国交正常化交渉の再開には応じないとしている。自民党の安倍晋三幹事長をはじめとする強硬派が主張しているのと同じ立場だ。
拉致の解決は大前提だが
 今や拉致問題は、政治家にとって地雷のような存在と化しつつある。「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)」は、11月に行われる総選挙で、すべての立候補者にアンケートを行う計画を立てている。
 北朝鮮への経済制裁を支持するか、拉致はテロ行為と考えるかどうかなどを尋ね、結果を投票日前に公表する。今回の選挙は「拉致された同胞を救うための国民運動」という位置づけだと、民主党の西村真悟・前衆院議員は言う。
 メディアの過熱ぶりも、ヒステリーの域に達した。昨年秋、小泉が訪朝した後の週刊誌には「『亡国官僚』田中均をクビにせよ!」「8人を見殺しにした政治家・官僚・言論人」といった見出しが掲げられ、北に「弱腰」の発言をした人物は名指しで攻撃された。
 昨年10月、77年に拉致された横田めぐみの娘キム・ヘギョンを全国紙2紙と民放テレビ1局がインタビューし、彼女が涙ながらに答える姿が報じられると、他のメディアはこの3社を袋だたきにした。拉致被害者と家族の結束を乱そうとする北の「策略」にはまったというのだ。
 怒りの渦は、罪のない在日韓国・朝鮮人も巻き込んだ。小泉の訪朝後、各地の朝鮮学校には「子供を拉致してぶっ殺してやる」といった脅迫電話が相次いだ。
 そろそろ日本は冷静さを取り戻すべきだろう。日本の安全保障にとって重要な問題は拉致以外にもあると、専門家は指摘する。
 8月の6カ国協議では、北朝鮮の金永日(キム・ヨンイル)外務次官がジェームズ・ケリー米国務次官補に対し、北朝鮮は核保有宣言と核実験を行う用意があると語ったとされる。
 10月2日には北朝鮮外務省の報道官が、8000本余りの使用済み核燃料棒の再処理を完了したと発表。北はすでに最大7発の核弾頭を製造する能力をもち、約200基の弾道ミサイルを日本に向けて配備しているという。
 外務省の竹内行夫事務次官は8月、被害者家族の早期帰国を優先すると明言しつつも、そのために「最もよい方法を探求し、(帰国を正常化交渉の前提とするかについて)今から何かを決めてかかるといった考えはない」と述べた。
 この発言に、救う会のメンバーや「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)」の蓮池透事務局長は、政府の公式見解と異なるとして激怒。竹内は発言を撤回せざるを得なかった。
 「国民の命を犠牲にして得られる国益とはなんだと、外務省は世論から問いかけられた」と、拓殖大学の重村智計教授は言う。「国交正常化のほうが国民の命より大切だなどと口にする官僚もいたが、それではもう国民が納得しない」
議論ができない民主国家
 拉致問題の全面解決を繰り返し主張することは日本の長期的な国益にかなうと、一部の政治家は主張する。北朝鮮には強硬路線しか通用しない、という考え方だ。
 「政策を一本化してもらって、支障になるものは排除する必要がある」と、「北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟(拉致議連)」の副幹事長を務める民主党の原口一博・前衆院議員は言う。
 だが、論争自体が存在しないことを懸念する向きもある。「北朝鮮が一枚岩だから日本も一枚岩でないといけないという人たちがいるが、日本は民主主義国家だからいろいろな見方があっていい」と、国際基督教大学の柴田鐵治客員教授は言う。「偏狭なナショナリズムが日本を覆ってしまっている」
 民主党の西村は4年前、日本も核武装するかどうかを国会で検討するべきだと週刊誌で発言したことを批判され、防衛政務次官を辞任した。タブーなしに議論することの重要性を痛感しているはずの西村に、拉致問題をめぐる状況は核武装の議論をタブー視しているのと同じ構図ではないかと問うと、こんな答えが返ってきた。
 「そのとおり。議論がないと言えば、小泉首相が平壌で共同宣言に署名すべきだったかどうかという議論がない。(拉致問題の解決法としても)経済制裁や宣戦布告などいろいろなオプションがあるが、今は懇願するだけで、議論がない」
 本誌は家族会の蓮池事務局長にも現状についての意見を求めたが、蓮池は取材に応じなかった。
 強硬派は、目に見える形で北に圧力をかけることを望んでいる。「経済制裁を科さなくて拉致や核の問題を解決できるのか」と、救う会の佐藤勝巳会長は言う。「話し合いで解決できるなら、なぜ25年間も解決できなかったのか」
失われた独自外交の好機
 強硬派は、北へ現金や物資を運んでいるとされる万景峰号の日本への入港禁止も求めている。自民党は先週、北朝鮮への送金停止を検討すると発表した。
 もっとも、日本だけが経済制裁を実施しても効果があるかどうかは疑問だ。北に流入する燃料や食料の大半は、中国が供給している。北朝鮮は、経済制裁は「宣戦布告」とみなすと主張してもいる。
 経済制裁を実施すれば東アジアの軍事的緊張が高まり、韓国や中国からの資本流出を引き起こして経済を破綻させると、慶応大学の小此木政夫教授は指摘する。「日本が単独で経済制裁に踏み切るのは、政策としては愚の骨頂だ」と、小此木は言う。
 対北朝鮮強硬派は以前から、日本はもっと積極的な外交をして東アジアにおける国益を守るべきだと主張してきた。昨年の日朝首脳会談はそのチャンスだったが、拉致問題をめぐって2国間のパイプは断ち切られ、経済協力やミサイル実験の凍結延長といった問題を決着させる道は閉ざされた。
 「核というグローバルな問題の解決に日本は重要な役割を果たせるはずだったが、その存在はレーダーから消えてしまった」と、東京大学の姜尚中(カン・サンジュン)教授は言う。「今の日本は、小さな穴から世界を見ているという印象しか受けない」
 日本にとって今の問題は、失った主導権をいかに取り戻すかだ。アメリカや中国にとっては、北朝鮮が核をもつことで、東アジアに核開発のドミノ現象が起きることだけは避けたい。「拉致問題については日本の主張を支持するが、核問題にも取り組む必要がある。優先するのは核のほうだ」と、米国務省のある当局者は言う。
 日本はいずれ、政策の優先順位を見直す必要に迫られるだろう。「北朝鮮は体制保障と経済再建の両方を必要としている」と、慶応大学の小此木は言う。「拉致問題だけを先に解決しても、北朝鮮は体制保障を得られない。だから、核問題が前進しないと拉致問題も動きださない」
カギは日本が握っている
 注目されるのは、早ければ11月に開催される次回の6カ国協議だ。日本に残された選択肢は、核問題を段階的に解決するようアメリカに働きかけ、同時に正常化交渉再開の明確な条件を北に示すことで拉致問題解決の道筋をつけることだと、専門家は指摘する。
 日本は北朝鮮がどこまで譲歩すべきかを伝える必要があると、チャールズ・プリチャード前米北朝鮮問題担当特使は指摘する。8月の6カ国協議でも1時間足らずではあったが、日本は北と拉致問題について話し合うことができた。
 「どこかに必ず窓はある」と、プリチャードは言う。「北朝鮮は拒否ばかりするが、たいていは最終回答ではない。彼らはこの問題を動かすことができるし、日本はその機会を与える必要がある。日本政府にはそれができるはずだ」
 それができなければ、来年もまた、何も進展がないまま10月15日を迎えることになりかねない。

拉致問題をめぐる
かたくなな姿勢は
日本が地域の平和の
推進役になるうえで
障害になっている



「拉致」された北朝鮮報道

メディア 拉致問題についてはもっと自由な報道と議論が必要だ デーナ・ルイス(本誌コラムニスト)

 日本のメディアは移り気なことで有名だ。たとえばテレビのワイドショー。多摩川に現れたアゴヒゲアザラシの「タマちゃん」に大騒ぎしたかと思えば、翌週にはスポーツ選手と女優のスキャンダルが話題をさらう。
 鈴木宗男のニュースばかりの週もあれば、田中真紀子だけの週もある。次から次へと新しい「重大」ニュースが登場するが、賞味期限はどれも短い。
 ところがこの1年、メディアに根を張ったように登場し続けている話題がある。北朝鮮による日本人拉致問題だ。9月に私が東京に行ったときには、テレビも週刊誌も、拉致問題の報道に1年前とほぼ同じ熱意を注いでいるように感じた。
 拉致被害者と支援者の顔は、新しい話題にかすむことなく、映画スター並みの認知を得るまでになった。北朝鮮関連のニュースには、必ずと言ってもいいくらい拉致被害者やその家族のコメント映像が一緒に流れる。

●−面的な情報ばかりを摸供

「血が流れる事件はトップニュース」アメリカのテレビや一部の活字メディアでは、これが一つの公式になっている。血なまぐさい殺人事件のニュースは、他のどんな話題より視聴率をかせげるからだ。
 必ずしも殺人事件である必要はない。心ない北朝鮮人のせいで生き別れになった家族の悲劇といった、胸を締めつけるようなストーリーでも同じような効果が期待できる。日本でも、アメリカのマスコミの「公式」が通用するようだ。
 日朝関係において、拉致事件ほど切実で明快なテーマはない。日朝関係のほとんどは「退屈」な地政学的問題なので、「敬愛する将軍様」の軍事パレードでもないかぎり、テレビ映えする「絵」がない。
 話題が切実なら、高い視聴率が見込める。視聴率がよければ、高い広告収入が得られる。
 もっとも、拉致事件の報道合戦の意味するものが単なるメディアの貪欲さなら、さほど危棟感を覚えない。気がかりなのは、それより悪質な問題が背景にあるように思えることだ。
 その問題とは情報操作だ。拉致事件を国民に常に意識させ続けるだけでなく、一面的な情報しか与えていないように思えてならない。
 もちろん、アメリカのメディアでは、情報操作は重要な手法の一つだ。メディアの自由な動きを封じれば、自分に有利な面だけを報じさせることができ、大衆の支持が得られる。
 最近アメリカで高度な情報操作を行ったのは、国防総省だろう。国防総省はイラク戦争中、ジャーナリストが米軍に同行することを許可した。記者たちは取材のチャンスだけでなく、安全確保も同行の部隊に頼ることになった。
 その結果、現地から届くのは批判的な意識の弱い映像や記事ばかり。「血のしたたる」ような映像にも事欠かなかった。戦争の別の側面が報じられるようになったのは、フセイン政権が打倒された後、メディアが自由にイラクに入れるようになってからだ。
 ここ1年、同じような「情報操作」が日本の拉致問題の報道にも見られた。拉敦被害者や支援団体は、ときには政治色の濃い組織や個人の支持を得て、報道をコントロールしてきた。

●独自取材は許されないのか

 被害者にインタビューできるのは、彼らの眼鏡にかなった記者だけ。記事ができても、厳しいチェックを経なければ掲載できない。
 独自の報道を試みた一部の報道機関は、他の報道機関や政治家から大バッシングを受けた。たとえば、横田めぐみの娘キム・ヘギョンにインタビューしたフジテレビや、曽我ひとみの夫に話を問いた週刊金曜日は、北朝鮮の術中にはまったと嘲笑されたり、「非国民」と攻撃されたりした。
 こうした独自報道のなかには、確かに首をかしげるような部分があったかもしれない。だが民主主義社会において、報道を抑圧して、一つの見方だけを報じさせることほど不健全なことはない。
 9・11テロによって愛国心が高まったアメリカでは、新開から大統領批判が消えた。メディアは大統領を批判しないよう、自己検閲を行った。このため、アフガニスタンやイラクを攻撃する前に必要だったオープンな議論が妨げられた。
 同じような状況が、日本の北朝鮮危機の報じ方にも見られる。幅広い見方が戦わされる議論はない。代わりに目にするのは、拉致被害者やその家族が、カメラの前で自分たちの「公式見解」を繰り返す姿ばかりだ。
 特定の方向に議論を誘導したいと考える政治家などにとって、こうした状況は好都合かもしれない。だが、国として北朝鮮にどう対処すべきかを考える必要がある日本にとって、プラスになるとは思えない。
 拉致被害者と彼らの苦しみを忘れてはならない。だが、一つの見方だけでなく、さまざまな観点から問題をとらえることも同じくらい重要なのだ。

 

ニューズウィーク日本版
2003年10月22日号

 

 



上記の記事に対して救う会全国協議会から事実誤認の抗議を受けたらしく、ニューズウィーク日本版発行人は後にお詫びと訂正をWeb上に掲載した。

 

- おわびと訂正 -
10月22日号の「『拉致』された北朝鮮報道」で、19ページの「被害者にインタビューできるのは、彼らの眼鏡にかなった記者だけ」との記述は誤りでした。5人の拉致被害者の方々はメディアの個別取材にはいっさい応じておらず、当該部分のような事実はありませんでした。被害者の方々、家族会・救う会および支援者の方々、マスコミ各位に深くおわびして訂正いたします。


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北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会
会長
佐藤 勝巳様

 このたびは、弊誌ニューズウィーク日本版10月22日号の記事「『拉致』された北朝鮮報道」におきまして、拉致被害者の方々がマスコミの個別取材にいっさい応じていないにもかかわらず、当編集部の翻訳の不手際により事実とは異なる報道をいたしまして、誠に申し訳ありませんでした。
 また、記事の誤りに関してご指摘いただいた後の当方の対応が迅速さを欠いたこと、誤りを確認したにもかかわらず、ご指摘いただくまで結果として5日間にわたって雑誌のウェブサイト上の記事を放置し続けたことを深くお詫び申し上げます。
 こうしたことを二度と起こさないよう、今後は編集上のチェック体制の管理をより厳しく行ってまいります。北朝鮮による拉致被害者の方々、家族会ならびに救う会の方々、そのほかの支援者の方々に多大なご迷惑をおかけいたしましたことを心よりお詫び申し上げます。

平成15年10月28日
ニューズウィーク日本版
発行人
五百井健至
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