資料

特定失踪者調査会:第5次1000番台リスト、第8次0番台リスト
 

第5次発表 1000番台(拉致の可能性が高いと判断される失踪者) 
                                             
●徳永 陽一郎(とくなが よういちろう) (当時18歳)
生年月日  :昭和10年(1935)1月14日
失踪年月日 :昭和28年(1953)10月7日
当時の身分 :染料店店員(配達)
当時の居住地:長崎県長崎市
失踪場所  :長崎市の家を出て
失踪当時の状況 :新しい仕事の話があり、履歴書を書いている途中で突然いなくなった。その履歴書に貼るための写真を店にとりに行く前に失踪した。10月7日に門司から書留が届く。家族から借りていた1500円を返してきたもので「いい仕事があった」「歩いてでも帰ってきます」と書かれていた。
《権革による目撃情報》
 1998年から1999年まで私が収容所の幹部をしていた時に見た。
 私が、収容所の幹部をしていたため、収容時に取調べをした。
現在も収容所にいるだろう。可能性として生きている。
 収容所に入れられた罪は、「資本主義が良い、拉致されてきた、日本に亡命する」ということを酔っ払って言っていたのをその場にいた友人に密告されたためだ。
 書類には、1954年か1955年に朝鮮に来た日本人となっていた。
 日本語をよく話していた。
 172センチからもしかすると180センチぐらいあったかと思う。
 体格がガッシリとしていた。
 右の肩に傷があったことを覚えている(入所時の身体検査の時の記憶)。
 傷がどんなものかははっきりしないが刃物による傷のようなものだ。
 盲腸の手術の跡もあった。
娘が一人、息子が二人いる。


●加瀬 テル子(かせ てるこ) (当時16歳)
生年月日  :昭和19(1944)年5月4日
失踪年月日 :昭和36(1961)年3月頃
当時の身分 :家事手伝い
当時の居住地:千葉県海上郡海上町(かいじょうぐん うながみまち)
失踪場所  :千葉県海上郡海上町
失踪当時の状況 :失踪当日、叔母と、翌日に新宿コマ劇場へ観劇の約束をし、午後パーマに行ってそのまま戻らなかった。パーマ屋では、観劇を楽しみにしていると本人が語っていたとのことで、自らの失踪とは考えられない。
当時の海上町周辺は、砂鉄、水あめが大きな産業であり、在日の企業・従事者が多かった。そして、それらは「大町ルート」によって、新潟、富山へ輸送され、北朝鮮に輸出されていた。その「大町ルート」で多くの失踪事件が発生している。
また近隣の旭市、飯岡市、八日市場市周辺で失踪が多発しており、それらは相互につながりが有ると見られる。
《匿名の人物による目撃情報》
加瀬てる子さんに良く似た女性をピョンヤンで見た。本人は「千葉の海から来た」と言っていた。


●屋木 しのぶ(やぎ しのぶ) (当時19歳)  
生年月日  :昭和23(1948)年1月27日
失踪年月日 :昭和43(1968)年1月18日
当時の身分 :美容師。美容学校卒業後、インターンとして美容院(東京都立川市、富山県入善町青木)で働いていた。
当時の居住地:富山県下新川郡入善町
失踪場所  :富山県下新川郡入善町
失踪当時の状況 :失踪当日、勤め先の美容院から休みをもらい、母の実家である入善町新屋の叔母の家に行き、双子の赤ちゃんの帽子と靴下を編んでいた。帽子と靴下ができ上がり、夕方6時半頃、新屋のバス停に向かった姿を叔母が見送ったのが最後。お金や荷物は持たず、運転免許証も置いたまま。いとこの嫁には、いなくなった次の日に富山市内に遊びに行こうと誘っていた。失踪当日は大雪だった。
すでに1000番台として発表している水島慎一さんの失踪のおよそ2週間前に失踪。場所は水島さんが失踪した朝日町の隣の入善町である。さらに2人の失踪の1年前にも、屋木さんのいとこ(女性)が経営していた編み物教室に来ていた二人の女性が、編み物教室が終わり道に出たところ、トラックが近づいてきて荷台にいた男性数人に引き上げられそうになったという未遂事件が起きている。
以上のように、他の失踪事件との時期・場所の類似、また北朝鮮工作員の侵入地点(水中スクーターの発見地点)に非常に近いことなどから判断した。


●園田 一・敏子(そのだ はじめ・としこ) (当時53・43歳)

生年月日  :大正7年(1918)2月25日(一さん)
      :昭和4年(1929)9月7日(敏子さん)
失踪年月日 :昭和46(1971)年12月30日
当時の身分 :ともに養鶏場勤務
当時の居住地:鹿児島県曽於郡大崎町
失踪場所  :鹿児島県曽於郡大崎町の自宅から宮崎空港へ向かう途中
失踪当時の状況 :正月に帰省する次女を迎えに宮崎空港へ行く途中、ガソリンスタンドに寄った後、消息を絶つ。空港の帰り、都城市へ寄ってから国道269号線を帰ってくると言っていた。警察や地元の住民らで大捜索を行なったが、車の破片さえ発見できなかった。
1971年10月2日、頴娃海岸(鹿児島県揖宿郡)で、ゴムボートに乗って海の方から上陸する二人の不審な人物を夜釣りをしていた人が目撃して、指宿署に通報。後日2人は事情聴取され、外国人登録証を持たない、北朝鮮生まれの人物だったことが判明した。
《権革等による目撃情報》
 私の友人の証言によれば、園田敏子さんと思われる女性は2002年に死亡した。
 友人はその女性を「おばさん」と呼んで親しんでいた。
 友人は彼女と同じ町に住んでいた。
 友人によれば、背が高い人で、結婚して、娘がいた。
 その娘は、朝鮮人と結婚していた。
私も「拉致された」と本人が言っているとの噂を聞いている。
 園田さんが夫婦で失踪したことは知っているが、北朝鮮には一人で来たとのことだ。


●遠山 文子(とおやま ふみこ) (当時21歳) 

生年月日  :昭和27(1952)年5月2日
失踪年月日 :昭和48(1973)年7月失踪
当時の身分 :無職(建設会社退職直後)
当時の居住地:東京都に在住のあと旅行にでかけて
遠山さんは昭和48年3月末に家出。その後、会社の同僚の男性と暮らしていた様子。両親がそのアパートを訪ねたが、その1週間後アパートを引き払い、勤めていた建設会社も6月15日に男性とそろって退社している。
当初は墨田区押上に在住。その後その男性とともに、福岡、東萩、津和野、札幌、女満別、知床、摩周湖、釧路、小樽、舞鶴、大阪、最後は石川県羽咋市の柴垣の海水浴場(1週間滞在)と転々と旅行した記録を示すアルバムが、遠山さんの友人に送られてくる。アルバムには写真ばかりではなく航空券、宿の領収証などが細かに貼り付けてあった。途中、宿泊人数が4人になったことがあった。
それほど親しくない友人にアルバムを送りつけるなど失踪の不自然さや失踪場所、それに目撃証言を加味し、判断した。
《権革の目撃証言》
清津連絡所で1993年6月に会い、接待を受けた。3日に3度会い、一緒に食事をした。身長157a位でふくよか、活発な性格。キム・ソングムと名乗った。「どこか分からないが海外に出る予定」と言っていた。


●清崎 公正(きよさき きみまさ) (当時41歳)
生年月日  :昭和7(1932)年9月5日
失踪年月日 :昭和49(1974)年6月14日
当時の身分 :建設会社経営(大工)
当時の居住地:兵庫県尼崎市
失踪場所  :兵庫県尼崎市
失踪当時の状況 :失踪当日午前9時頃、通常と同じように弁当を持って近くの銀行に歩いていくのを妻が見送ったのが最後。銀行では支払いのため50万円下ろしている。そのお金は自宅から歩いて10分の事務所に置いたまま、電気もついたままであった。失踪後なくなったものはない。失踪後2〜3カ月して乗っていた軽トラックが尼崎の阪急園田駅近くの額田で発見された。
経営は順調で当時現場を8件かかえ、新しい仕事のため建機も2台購入したところだった。仕事を整理したときも借り入れは一切無かった。失踪後無言電話が数回あった。
失踪直前から在日朝鮮人と思われる人物と、仕事の取引で知り合い、急速に親しくなった。この人物は失踪後、警察への届出や仕事の整理などを2週間程度で手際よく行なったあと、姿を消している。
自ら失踪する動機が見当たらないこと、北朝鮮工作員の拠点の一つである場所での失踪、不審な人物との接触など、複数の要因から総合的に判断した。


●山田 建治(やまだ けんじ)(当時30歳) 
 
生年月日  :昭和24(1949)年1月22日
失踪年月日 :昭和54(1979)年12月18日
当時の身分 :ドラム缶工場勤務
当時の居住地 :富山県西礪波郡福岡町
失踪場所  :福岡町の自宅から高岡市の勤務先への通勤途上
失踪当時の状況 :車で出勤途中に失踪。1週間後越中国分駅の海側で車(三菱ジープJ−54)がキーをさしたまま放置されているのがみつかる。車内に運転免許証、財布、空の弁当箱が残されていた。
富山県高岡市の雨晴海岸では、山田さん失踪前年の78年8月15日にアベック拉致未遂事件が起きている場所であること、山田さんの勤務先のドラム缶工場がその現場に近いこと、失踪付近で海に向かって発着信号が送られていることが目撃されていること、また失踪の形態や車が放置されている状況など、他の失踪との類似性から判断した。


●辻 與一(つじ よいち) (当時32歳)
生年月日  :昭和24(1949)年2月6日
失踪年月日 :昭和56(1981)年12月4日(この日の朝まで下宿にいたことが確認されている)
当時の身分 :高校英語教諭
当時の居住地:三重県桑名市
失踪場所  :三重県桑名市
失踪当時の状況 :失踪当日昼前、下宿から失踪。失踪数日前から、下宿に不審な男性が見張っていて、一度は下宿の敷地内に入ろうとしたため、下宿の大家が制したこともあった。
下宿の部屋に朝鮮関係の本がたくさんあり、また残されたノートにはそれらの本の感想や、北朝鮮に関連すると思われるサークル活動に参加した記録などが、日記のように記されていた。週明けに期末試験が控えており、通常の勤務状況、当時の部屋の様子からして、自らの意思による失踪とは考えられない。


●林田 幸男(はやしだ ゆきお) (当時53歳) 

生年月日  :昭和9(1934)年12月2日
失踪年月日 :昭和63(1988)年7月17日
当時の身分 :建設会社経営
当時の居住地:宮崎県児湯郡高鍋町
失踪場所  :宮崎県沖海上
失踪当時の居住地 :林田さん所有の遊漁船「共擁丸」1トンで、友人と二人で午前4時頃、宮崎市の大淀川河口の通称「タンポリ」を出港、その後二人とも消息を絶つ。海上保安庁や自衛隊など海と空から四国沖まで広い範囲で捜索を続けたが、ライフジャケットが見つかっただけで船の残骸など一切見つからなかった。またパーソナル無線を持っていたが、何の連絡もなかった。当時はべた凪だった。
林田さん失踪の翌年10月、宮崎県高鍋町沖で地元の釣り人が釣りをしていたところ、不審な船に追いかけられたという。
宮崎県中南部海岸では原敕晁さんの拉致が行なわれ、また工作員の上陸も確認されている。当時宮崎県警は、北朝鮮の不審船や密航者に注意を促すビラを配っていたことから、工作員がかなり頻繁に出入国を繰り返した地域と思われる。

 


第8次発表 特定失踪者0番代リスト


●藤田 慎(ふじた しん)(当時29歳)
生年月日  :昭和6(1931)年9月5日
失踪年月日 :昭和35(1960)年
性別: 男
当時の身分 :三菱重工に勤務
当時の居住地 :東京都大田区蒲田本町(姉夫婦の当時の居住地)
失踪場所 :不明
失踪当時の状況 長兄に旅行に行くと新品の靴を借りに来る。次男夫婦に、「結婚したい人がいる」と相談。また、弟にお金を借りに来る。その後音信不通。失踪から数年後、兄夫婦宅(川口市仲町)に年賀状が届く。字体は達筆(本人の字体に似ていた)。差出人の名前がなかった。消印は世田谷(?)だったようである。
昭和51年2月7日失踪の藤田進(19)のおじにあたる。


●白鳥 英敏(しろとり ひでとし)(当時19歳)

生年月日  :昭和24(1949)年10月27日
失踪年月日 :昭和44(1969)年7月
性別: 男
当時の身分 :信州大学農学部1年
当時の居住地 :長野県松本市
失踪場所 :長野県松本市の下宿先から
失踪当時の状況:松本市の下宿先より行方不明。家主が毎日、下宿から出かけるとき、帰ったときに声をかけていたが、本人が入院中のため留守で、いつごろからいなくなったのか分からない。退院してきていなくなったのではないかと、家主から家族に連絡があった。
家族が大学に行き調べた結果、7月中旬頃大学の図書館で見かけた人がいることが分かった。そのとき会った学生に調べてもらい44.10.17付けの葉書をもらう。その学生によれば、学生運動に詳しい人にきいてみたが良い返事が得られなかった。父あての最後の葉書(44.6.25付け)では学生紛争中ではあるが少しはクラスで勉強したり、クラブでコロナ観測所に行くこと、6月30日の夕方に帰ること等が書いてあった。学生運動に熱中している様子もなく、家出する理由もない。部屋の中も暮していたままで食事のあとがそのままで、食器も洗わずにおいてあった。


●鈴木 清江(すずき きよえ)(当時23歳)

生年月日  :昭和33(1958)年3月27日
失踪年月日 :昭和57(1982)年2月5日
性別: 女
当時の身分 : 会社員 事務職
当時の居住地 :静岡県袋井市宇刈1192
失踪場所 :静岡県袋井市宇刈
失踪当時の状況 :本人が車での帰宅途中、妹さん、お母さんと出会う。本人の車が交差点で発進したところ一台の車を追い越す。さらに、その車が本人の車を追い越し、直前に止まる。男が降りてきて車の横で下を向いて立っており、本人も男を見るように立っていた。妹さんもお母さんも車にも男にも見覚えなし。妹さんとお母さんはそのまま帰ってきてしまったが、本人はそのまま行方不明。翌朝、道路横の空き地に本人の車が鍵をかけた状態で止まっていた。バッグはなく、財布と買い物をしたものが残されていた。失踪する理由は思い当たらない。警察も調べたが何らの結果も出なかった。


●藤山 恭郎(ふじやま やすろう)(当時22歳)
生年月日  :昭和35(1960)年1月13日
失踪年月日 :昭和57(1982)年12月14日
性別:男
当時の身分 :無職
当時の居住地 :大坂府大阪市東淀川区菅原6丁目6番6号
失踪場所  :不明
失踪当時の状況 :昭和57(1982)年12月14日、本人から実家に手紙が来てそれ以来、音信不通。親子関係は良好だったが、昭和57年夏、帰省中に自殺未遂。
帰省中に大学を中退したい、郵政省の試験を受けたいなどと話す。昭和57年12月9日大学に中退届け。失踪後、約1年間、毎月15日前後に呼び鈴が2〜3回なりすぐ切れる電話があった。一度、父親が出ると声が聞き取れずにすぐに切れた。


●佐々木 正和(ささき まさかず)(当時37歳)

生年月日  :昭和25(1950)年8月15日
失踪年月日 :昭和62(1987)年11月末
性別:男
当時の身分 :家庭教師、塾講師をしていた。(正確には不明)
当時の居住地:埼玉県大宮市宮原町3−555カマエ荘
失踪場所  :埼玉県大宮市?
失踪当時の状況 :昭和62年11月末日、アパートの大家と話をした後、不明。1人暮らしのためはっきりした日時がわからない。大家から12月に連絡があった。部屋の中は荒らされていない。現金10万円が部屋にあり、預金もそのまま。免許証もおいたまま。家族とは数ヶ月に一度顔を見る程度だった。


●永島 康浩(ながしま やすひろ)(当時23歳)

生年月日  :昭和53(1978)年7月26日
失踪年月日 :平成14(2002)年4月30日
性別: 男
当時の身分 :准看護士
当時の居住地 :栃木県下都賀郡
失踪場所 :下都賀郡の自宅を出てから不明
失踪当時の状況 :平成14年4月29日、仕事場を変わりたいような話をしていて、夕方求人広告を見ていた様子。家庭では看護士そのものをやめたいとは言っていない。4月30日、19時頃、本人が母に「レンタルビデオ屋にビデオを返してくるから夕食は帰ってから食べる」と言った。いつもと変わらない様子だった。同日20時頃、隣の部屋にいた父が本人の声で「今すぐ行く」と言っていたのを聞く。明るい感じの声で話していた。短い電話の内容、相手はわからず(携帯電話)そのまま行方がわからなくなる。