
投稿者
trycomp 投稿日時 2005-5-27 8:43:27 (1893 ヒット)
北朝鮮平壌の「外貨ショップ」で二組の風変わりなカップルがショッピングを楽しんでいた。
一組は曽我ひとみさんとジェンキンス夫妻。もう一組はジェンキンス氏と一緒に脱走した米軍兵士と、レバノンから拉致されてきた女性のカップルである。
一行が店内の電化製品売り場を眺めていると、一人の女性がラジカセを見ているところに遭遇した。日本人・・・?
この女性を知っているらしく、レバノン女性は彼女に話しかけ、二人は親しげに英語で話し出した。別れた後、曽我さんがレバノン人女性に、「あの人、誰?」と聞くと、彼女はこう答えた。
「ロンドンから拉致されてきた人よ」
こう始まる記事は、今日(27日)発売のフライデーの『衝撃新証言 曽我ひとみさん「平壌で有本恵子さんと会いました」』と題する記事である。この情報は昨年11月、家族支援室を通じて曽我さんから有本嘉世子さんに伝えられた。曽我さんは日本に帰ってきてから写真を見て、あれは恵子さんだとわかったという。目撃した時、男性と二人だったというが、その男性が石岡さんだったかどうかは、わからないらしい。
レバノン女性と有本恵子さんは、86年の出産の時、同じ病院に入院していて知り合った。石岡さんから北海道の実家に赤ちゃんの写真と共に「有本恵子さんと一緒にいる」としたためた手紙が届いたのが88年9月、そして北朝鮮が死亡したとしている時期が88年11月。曽我さんが有本恵子さんと出会ったのがいつなのかは、はっきりとしていないが、少なくとも出産後であることは間違いなく、86年以降ということになる。場合によっては、北朝鮮が死亡とした88年以降である可能性もある。
私達は、拉致された人々は隔離された状態で外部との接触は出来ないと思いがちだが、この証言はそうでもないことを示している。考えてみれば、石岡さんは誰かに手紙を託そうとして持ち歩いていたと思われ、そして実際にその手紙はポーランド人によって送られてきている。もちろん多くの制限がある中ではあるが、それなりに誰かに接触出来る機会はあったようだ。
またよど号犯グループによる拉致と、日本に潜入した工作員(及び日本での協力者)による拉致では系統が違うため、北朝鮮でも接触することは一切ないと言われてきたが、これも必ずしもそうではないと考えていいのではないだろうか。
救う会兵庫の長瀬会長は「帰国した5人の方々が、もっと多くの情報に接していた可能性を強くうかがわせる」と語っている。今回のこの曽我さんの情報自体、昨年11月には政府にもたらされていたものであり、他にももうすでに色々な情報があるのかもしれない。その情報を活かすも殺すも日本政府の手にかかっている。
小浜では地村さんのお子さんの帰国を願って植樹されたアスナロが2度に渡って引き抜かれた。小浜市はこれを植え替えると共に、小浜署に地村さん一家への警備を要請した。脅し、と見ることも荒唐無稽なことではない。
朝鮮総連が首相官邸の目と鼻の先で結成50周年記念パーティーを開いた。抗議活動をした萩原遼さんは「おこがましいにもほどがある」と憤ったが、そのパーティーに日本の各党が参加し、メッセージを送る。スパイ防止法もない。これで、帰国した5人に「すべてを話せ」というのは酷な話しである。
有本明弘さんは「5人は他の被害者と交わっていたときもあると思う。もっともっと話してほしい。それでどれほど心が和らぎ、希望を持つことができるか」と語っている。
日本の政治家は朝鮮総連のパーティーにメッセージを送る前にやることがある。
有本恵子さんに関しては今までも何度も生存情報が流されてきている。91年、有本・石岡・松木の三家族で実名での記者会見をしようとした際、新左翼系の書店主が「金日成の主治医と太いパイプがある。1〜2ヶ月待ってくれれば必ずよい返事をあげる」と言って、会見を実質的に中止させた。書店主は恵子さんを北京に連れ出し迎えに行く、という案を話したという。後に森前総理が同様の第三国出迎え案を北朝鮮に提案(実際に行ったのは中山正暉元議員)したが、これも有本恵子さんを念頭に置いてのことだと思われる。95年11月平壌で田宮高麿が「有本さんらを日本に帰したい」と語ったと、 96年有本家を訪れた高沢皓司氏が有本さんご両親に伝えた。2002年3月20日、中山正暉元議員は有本嘉代子さんに電話をかけ、救う会の運動から手を引けば平壌に連れて行って恵子さんと会わせてやる、と語った。また9月17日の小泉訪朝直前にも有本恵子さん生存情報が流れ、当日、号外まで用意した新聞社もあったと言われている。つい先日も中国から有本恵子さんの写真がもたらされているという出所不明の情報も流れた。希望を持たせては落胆させてきた有本ご夫妻に、日本政府は強いメッセージを送るべきである。

*新聞報道によると有本さんが曽我さんからこの証言を聞いた時期を今年2月としていますが、フライデーの記事では、「昨年11月の第三回日朝交渉のころ」家族会で支援室に行き、その場で小熊室長が携帯電話を曽我さんにかけ、有本嘉世子さんが曽我さんから話しを聞いた、となっています。