
投稿者
よっこ 投稿日時 2004-8-17 22:52:37 (4147 ヒット)
「同一人物の可能性が極めて高い」。
北朝鮮の政府機関で働いていた脱北者が持ち出した日本人拉致被害者の写真。東京歯科大の橋本正次郎助教授は特定失踪者の藤田進さんの写真と照合した結果、冒頭のような結論を出した。弟の隆司さんが言う。
「兄は一重まぶた。写真は二重だったから最初は違うと思ったんです。でも、鑑定の結果を聞いて兄に間違いないと思いました。眉の傷やホクロの位置も一致する。兄は奥二重で一重に見えていたんです。」
そして、この新たな拉致の存在は、奇妙な事実を浮き上がらせることになった。藤田さんをはじめ、忽然と姿を消した6人が埼玉県川口市と何らかのかかわりを持ち、しかも川口警察署を中心とした半径3キロ以内に住居や実家があったのである。
東京学芸大学1年に在学中の
藤田進さん(当時19)が、新宿へガードマンのアルバイトに行くといって自転車で家を出たまま消息を絶ったのは'76年2月7日。当時、家族は川口市で鋳物師として働く父親と弟の3人。
「自宅から川口駅までは自転車で5〜10分の距離。当時の川口駅の西口は燃料研究所の建物がある以外は何もない寂しい場所でした。そんな駅前の自転車置き場に自転車を置いたまま兄は帰ってこなかったのです。家出や自殺は考えられないし、身代金の要求もない。警察の身元不明の遺体を毎年見に行きましたが、あれだけは本当に嫌でした。そして特定失踪者調査会に届け出たら、川口の人がたくさん失踪していることがわかったんです。川口は昔から鋳物工場が多く、在日朝鮮人がたくさん働いていました。在日朝鮮人が多いことと、失踪者が集中していることには関連があると思えてならないのです」(隆司さん)
「仕事に行く」と埼玉県浦和市(当時)の自宅を出たまま失踪した
佐々木悦子さん(当時27)の実家も川口市内にある。以下は母親のアイ子さんの話だ。
「悦子が失踪したのは結婚5年目の'91年4月22日でした。バス停に自転車を置いてバスに乗ったことは確認されていますが、その後の足どりはわからない。その日の昼ごろ、パート勤務をしていた埼玉銀行(当時)の同僚に悦子から『私に電話があったら席を外していると言っておいて』という電話があったそうです」。それが最後の連絡だった。運転免許証やパスポートも残したまま、預金も手つかずのままでその後、引き出された形跡はない。
また、拉致の疑惑だけでなく実際に拉致された人物もいた。大韓航空機爆破事件の実行犯・金賢姫の教育係、李恩恵こと
田口八重子さん(当時22)がそうだ。田口さんは'78年6月29日、勤務先である池袋のキャバレー「ハリウッド」に向かうため、高田馬場のベビーホテルに2人の子供を預けたまま行方不明となった。結婚するまで暮らしていたのは川口市だ。
兄の飯塚繁雄さんも前出・藤田隆司さんと同様の指摘をする。
「川口は鋳物の町で在日朝鮮人の人たちが大勢仕事をやっていた。うちの父親も鋳物工場で働いていました。川を挟んだ足立区には朝鮮総連系の病院があるし、川口にも総連系とされる病院がある。八重子が勤めていた池袋にも朝鮮人の溜まり場といわるような場所があります。そのなかの一部の人間が日ごろから情報を集めていたんじゃないか。川口周辺でこれだけ失踪者が出るのは、絶対に何か理由があります。」
その田口さんと同じ高校の出身で、勤務先も同じ池袋だったのが銀行員の
新木章さん(当時29)。父親の勤務先も川口市の鋳物工場だった。語るのは妹の横山樹三子さんだ。
「'77年の5月21日でした。兄は買い物に行くといって出ていったんです。18日が給料日で、その日に母に渡す3万円と別に9万円を2回に渡って下ろしていますが、その後は1回も下ろしていません。預金もそのままです。田口さんの叔父さんが私たちが住んでいた川口市栄町の近くで青果店をやっていて、田口さんもよく遊びにきていたと聞いています。それくらい近い町内会レベルで失踪者が出ているんです」
【拉致事件の裏で暗礁する在日コリアン非合法部隊】
元共産党議員秘書で拉致被害者の家族会結成に尽力した兵本達吉氏は、川口周辺の被害者に関して早くから調査を行っていた。その兵本氏は川口での失踪と拉致の関連性をこう指摘する。
「拉致事件は日本海沿岸か在日コリアンが多数居住する地域で発生しています。拉致を実行するのは北から派遣されたプロ集団ですが、その周辺に拉致をサポートする部隊があります。それが在日コリアン非合法部隊です。つまり、そうした在日コリアンがたくさんいる地域は彼らにとって有利な条件にあるんです。新木さんのケースもそうですが、
鋳物工場が林立する川口は在日コリアンであふれ返っていました」
'75年当時の川口市の人口は34万5千741人。うち外国人登録者数は1千908人で、韓国・朝鮮が1千791人と圧倒的に比率が高いことがわかる。
「川口に韓国・朝鮮の人たちが多いのは確かです。戦争前から働きにきてた人が多かったようですが、戦後も鋳物工場で働く人がたくさんいましたから。あとは焼肉屋さんなどの飲食店が多いのも理由のひとつかもしれません」と川口市役所も在日朝鮮人の多さを認めている。
井上克美さん(当時21)は結婚後、西川口駅近くのアパートに住み、川口市の電気工事店に勤務していた。'71年12月29日、会社の忘年会の後、川口市内の飲食店で深夜まで飲み、友人とすし屋で食事をして別れた後、消息を絶った。兄の一男さんが当時の状況を語る。
「2月に長男が生まれる予定で、克美は子供好きでしたから家出する理由は見当たらない。年が明けて捜索願を出しましたが、その後、運転免許証が更新されていないことがわかり『あぁ、この国にはもういないな。死んでいるのかもなぁ。』と親も諦めたんです」。
失踪2年後にはおかしなことがあった。父親の兄(伯父)宛てに見覚えのない差出人と住所の暑中見舞いはがきが届いたのだ。
「その後、お変わりありませんか」の文字に心あたりはなく、住所は存在しなかった。
'72年5月28日に埼玉県三芳町の自宅を出たまま行方が知れない
鈴木賢さん(当時23)も、川口市の生まれである。当日は会社のレクリエーションに行く予定だったが、それには参加していない。兄の智さんが言う。
「家出するような要素はまったく考えられませんでしたから、何かの事件に巻き込まれたのかと。行方不明者の遺体鑑定ファイルなどを県警に見に行ったり、ありとあらゆるところを探しましたが、もう九分九厘死んでいるかなと思いました。新聞で特定失踪者問題調査会のことを見たときに『もしかしたら拉致も考えられるかな』と頭をよぎり、いろんなことが明るみ出るうち、弟もその可能性があると思うようになりました。一縷の望みが出てきたんです。」
消えた6人が暗示する"拉致川口ルート"。さる在日韓国人の大物実業家はこんな話をする。
「
川口は6人ということになっていますが、本当は10数人いるといわれています。結局、特定できなくて6人ということになったんです。実は私のところに公安関係者が来ています。関心を持っている証拠です」
同氏はまた、拉致の手口についてもこう言及するのだ。「川口のような都会で拉致をするとなれば、組織でやる。総連を中心に情報収集や手引きをやり、実際の拉致は向こうからスパイをよこすんです。日本はスパイ防止法がないから、密航でどんどん入ってくる。250人くらい入ってます」。
日朝実務者協議で成果を出せなかった日本外交。川口ルートの解明は失地回復のカードになるはずだ。
(FLASH 8/31号)
■川口から拉致問題を考える集い 資料
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=1725■藤田進さんはどこで拉致されたのか
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=2883■大町ルート
http://nyt.trycomp.com/takano/oroot.html