松木薫さん
 
 電脳補完録


北朝鮮の発表:死亡

 

石岡亨(いしおか とおる)さん、松木薫(まつき かおる)さんの2名が、欧州滞在中の昭和55年(1980年)にそれぞれ消息を絶ちました。その後、石岡さんから家族宛に届いた昭和63年(1988年)8月13日付・ポーランド消印の手紙の中に、石岡さん、松木さん、有本恵子さんの3名が北朝鮮に滞在している旨が記載されていましたが、それ以後、3名の所在確認には至っていません。
 警察では、関係者から事情を聴取し、海外の関係各機関と情報交換など、必要な捜査を行った結果、北朝鮮による日本人拉致容疑事案と判断しています。

2002年10月警察庁によって認定

松木 薫(まつき かおる)さん
1953年6月13日生
熊本市
行方不明当時 大学院生(27歳)
   
 

* 1980年夏頃、スペインに留学中にマドリードで消息を絶った。
* 石岡亨さんが実家に出した手紙に松木薫さんの名があり、平壌で有本さんと3人で暮らしていることが判明した。
* 警視庁公安部は、よど号事件グループが拉致に関与したとみて捜査している。
* 京都外国語大学の大学院生だった。
* 朝鮮名は「リム・チョンス」。
* 北朝鮮への入国経緯は、「石岡亨さんとともに、特殊機関工作員と接触するうちに松木さん自身が北朝鮮訪問の勧めに応じ、語学教育の目的で1980年6月7日に北朝鮮に連れてきた」と発表された。
* 北朝鮮特殊機関の求めに応じて、特殊機関内の学校で学生に日本語を教えていた。
* 独身を通していたが、楽天的な性格ではなく、すべてにおいて慎重で思索的な人間で、受け持った仕事および生活両面においてそつがなかったと伝えられる。
* 1996年8月23日、リャンガン(両江)道の革命史跡の参観に行く途中、ハムギョンナムド(咸鏡南道)コウォン(高原)郡と北西郡の境界にあるトチョル嶺という峠道を自動車乗車中、運転手の不注意による事故で、運転手とともに死亡したと伝えられる。
* ハムギョンナムド(咸鏡南道)プクチョン(北青)郡の遺骨安置所に遺骨が保管されていたが、洪水被害で流されたという。
* 最近の調査で100%の保証はないが松木さんのものと思われる遺骨が発見され、再火葬されたの後、2002年8月30日に平壌市ランナン(楽浪)区域オボンサン共同墓地に安置されたと伝えられた。
* 松木さんのものと思われる遺骨は日本側に引き渡されたが、鑑定の結果、松木さんの遺骨ではないことが確認された。

   

 

北朝鮮が呈示した個別情報
 
  1.  朝鮮名:リム・チョンス、男  1953年6月13日生
  2.  本籍:鹿児島県出水郡東町
  3.  住所:熊本県
  4.  前職:京都外国語大学学生
  5.  入国経緯:1980年頃語学修得および論文執筆のため、スペイン滞在中、石岡亨さんとともに、特殊機関工作員と接触する過程で共和国訪問の勧めに直ちに応じ、特殊機関が日本語教育に引き入れる目的で、1980年6月7日、共和国に連れてこられた。
  6.  入国後の生活:特殊機関の人々が、朝鮮に残って勉強をしながら日本語を教えてくれないかと依頼したところ、承諾したことから、特殊機関内の学校で学生に日本語を教える仕事を誠実に行っていた。独身を通していたが、楽天的な性格ではなく、すべてにおいて慎重で思索的な人間で、受け持った仕事および生活両面においてそつがなかった。これらの正確な描写は、彼から日本語を教わった学生の回想に基づくもの。
  7.  死亡経緯:1996年8月23日、リャンガン(両江)道の革命史蹟への参観に行く途中、ハムギョンナムド(咸鏡南道)コウォン(高原)郡と北西郡の境界にあるトチョル嶺という峠道を自動車乗車中、運転手の不注意による事故で2人とも死亡した。事故調書はあるが、法的仕組みが整った時点で関連情報・書類について引き渡すことができる。
  8.  遺骨:ハムギョンナムド(咸鏡南道)プクチョン(北青)郡にあった遺骸安置所は洪水被害で流されたが、最近の調査委員会による調査で遺骸が発見され、100%の保証はないが、再火葬され、2002年8月30日に平壌市ランナン(楽浪)区域オボンサン共同墓地に安置された。遺骸の移動の年代、火葬状況から測定して当人の遺骨に近いと判断したもの。
  9.  遺品:写真が遺っている。
  10.  よど号犯との関連については解明されていない。

 

松木薫さん


松木薫さん


父・松木益雄さん

母・松木スナヨさん

 


石岡さんから届いた手紙


 


松木薫さんの物として捏造された死亡診断書



左が松木薫さんが「日本語教育」の教材として使用したとされるシナリオ。表紙の文字は薫さんの直筆と思われる。


姉・斉藤文代さん


弟・松木信宏さん

 

1953年6月13日生

3人女の子が続いた後、松木家の待望の長男として生まれる。京都外語大学大学院でスペイン語を学んでいた。

ある時帰省した彼は母に「はいお菓子」と箱を差し出す。<あら、うれしいとスナヨが蓋を開けると、中にはお札が詰まっていた。母親が渡していた小遣いだ。(中略)「こんな出来すぎた子を生んだ覚えはないよ」。スナヨはそう言いながら感激して涙をためていた>。(『家族』より)

1980年、26歳、スペイン語に磨きをかけるためスペインに留学。

『今でも後悔している、勧めなきゃ良かった、父は駄目と言ったが、母と私が賛成した。したいことがあっても出来なかったので、行かしてあげたらと言った・・・ 』(斉藤文代さん)

スペイン・マドリッドでよど号犯の妻、森順子・黒田佐喜子が松木薫さん、石岡亨さんに接触。6月7日、拉致目的でオーストリア・ウィーンに連れ出す。森順子・黒田佐喜子の2名は石岡亨さんとはバルセロナの動物園で偶然出会っただけ、松木薫さんに関しては全く知らないと言っている。当時、スペイン・マドリッドに滞在していた日本人女性2名が、松木、石岡、森、黒田の4人と親しくしており、一緒にウィーンに行かないかと誘われていたことを証言している。

父は地元警察に足を運び捜索を願った、また、スペインに行ったことがある人を訪ね消息を聞いた。
『父が母に手を差しのばして亡くなっていた。父は、先に逝くけど、母に頼むねって言うことでしょ、多分。うちの母も大人しい母なんですよ、つらかったんじゃないかと・・・ 』(斉藤文代さん)

1988年9月、石岡亨さんから松木薫さん、有本恵子さんと共に北朝鮮にいることを知らせる手紙が札幌の実家に届く。住所の書かれていた有本恵子さんの実家にはすぐに連絡が出来たが、熊本市としか書かれていなかった松木家にはなかなか連絡がとれず90年末になってようやく連絡が出来た。

91年1月、有本家、石岡家、松木家の三家族が神戸で初めて集まった。松木家からは当時高校生だった弟、松木信宏さんが出席した。

 当初は、そこまでは(兄が北朝鮮にいるということ)断定出来なかった。いや、信じられない、信じたくなかったと言う方が正解かもしれない。何故かと言うと、石岡亨さん、有本恵子さんの場合は、手紙は亨さんの直筆であり、有本さんも直筆の署名があったし、二人とも本人の写真もあった。兄の場合は、住所などは石岡さんの代筆であり、写真も無い。ただ、石岡さんと兄の欄の間に赤ちゃんの写真が貼ってあった。兄の子供の頃の写真ではないし・・・現地の女性との間の子供だろうか?今現在は、石岡さんと有本さんの子供の写真ということになっているが、三家族が神戸に集まった時は、そういうことは考えもつかなかった。他の人達が、『生きている証』というべきものを送ってきたのに対し、兄であると言う証拠は全く無く、訴えようが無かった。訴えたとしても、「高校生」の私の言葉に耳を傾けるマスコミ、政治家が果たしていただろうか?いなかっただろうと思う。(松木信宏さん)

三家族は、連名の嘆願書を用意し、「名前も出して、記者にも話そう。外務省にもお願いしよう」と決めた。

91年1月16日、有本、石岡、松木3家で相談し、外務省で会見しようとしていた所、寸前にNHKの記者から「会ってもらいたい人がいる」と連絡があり、ウニタ書店経営のEが来て、「恵子さんたちは生きている。 拉致を表に出すのは危ない。自分は金日成の侍医とつながる人を知っている。会見を中止すれば助けてやる」というので中止した経緯がある。Eは恵子さ んに手紙を届けてやる」といったので家族で寄せ書きして渡したが、後日「よど号」犯の支援者Tが有本家を尋ねて来て、「Eからご両親らが恵子さんあ てに書いた手紙を預り(「よど号」犯の)田宮高麿に届けた」と話した。この時点で生存していた可能性が高い。(救う会)

結局、記者会見は匿名でということになり、そのため大きく報道されることもなかった。

母は私に『他人は勿論、親類、姉達にも一切話すな』とだけ私に命じた。(松木信宏さん)

1997年3月、家族会結成。しかし、松木家は2002年9月27日まで家族会には参加していなかった。

家族会連絡会が結成された時にすぐ一緒に運動したかったのですが、ちょうど母の具合が悪くなりまして。それとこれは今まで話したことがないのですが、警察から行動することを止められていたんです。お姉さんが出て行けば薫の命がないと。実は、警察は家族に疑いを掛けていたんですね。本当は薫の居場所を知っていて、連絡を取り合っているんじゃないかという風に。
(それってスパイということですか?)
ええ、早く言えば私がマークされていたんですね。以前から、どうしてこんなによく警察が家に来るのかなとは思っていたんですが。ですから死亡と発表された時も私は東京に行っていないんです。でも我慢の限度があるから、薫が殺されるというのであっても参加したいと警察に何度もお願いに行って、それ9月に小泉首相に会う時に初めて上京したんです。(斉藤文代さん・インタビュー記事

2002年9月 、薫さん死亡と北は伝えてきた。

『私はその日は可哀想で母に会えなくて、次の日にいったんですよ。そしたら、薫のことを聞いた、と母が。 どきっとして。それは違う人よ、と母に言ったが、TVでやっていたと母が言う・・・。
タラップから(5人が)帰ってくるとき、最後に薫が降りてくるかと思った。薫は降りてこない、5人の姿は嬉しかった、ああ、一つ解決した、今度は薫が帰ってきて、この方達も帰ってくると思ったから。 私たちはバスの中に、妹と二人入って、運転手さんだけしか居なかったから大声で泣きました。
やっぱり、嬉しいけどね、薫が居ないからね・・・ 。』(斉藤文代さん)

2002年10月、政府調査団が松木薫さんの北朝鮮で撮影した写真と、96年に交通事故死したとされる「薫さんの遺骨」を持ち帰ってきた。不自然にも、遺骨は2回も火葬されたという。DNA鑑定は難しい。だが、日本には骨の形から鑑定する方法があった。この鑑定をしたのは、東京歯科大の橋本正次講師(法人類学)(藤田進さんや加瀬テル子さんの写真も鑑定)。橋本氏は上あごの骨の一部を独自に鑑定した。骨の写真を見た松木さんの姉の斉藤文代さんは「ほんの数センチの小さい物」と話す。生存時には歯が四本生えているだけの部分。丹念に調べると、歯根が埋まっている歯槽部分が浅く、骨も小さいことから高齢の女性のものと推測されたという。橋本氏は「歯槽膿漏(のうろう)になると、歯槽が浅くなる可能性もある」と考え、十月末、斉藤さんら松木さんの姉二人に歯形のエックス線写真の提供を依頼。歯の大きさは遺伝するが、姉二人の歯は大きく、歯槽も小さい骨が松木さんの遺骨とは考えられないと結論づけた。依頼を受けてすぐに病院でエックス線を撮ったという斉藤さんは「もしかしたら弟の骨ではという不安があったが、これで生存を確信した」と話す。

2002年10月8日、日本政府によって松木薫さんが「拉致認定」される。家族会にも参加した斉藤文代さん、松木信宏さんは各地で講演をするなど精力的に活動してきた。
2003年、4年とよど号犯妻や子供らの帰国が相次ぐ。

実際、日本国内の 拉致と違いまして私の兄たちは、ヨーロッパから猿ぐつわをされて連れて行か れたという訳ではありませんので、ある意味だまされたという側面があります ので、自分たちの足で北朝鮮に入ったことは間違いないのでしょう。しかし、 そのような形で入りはしましたが、だまされたと気付いて帰りたいという状況 で、北朝鮮からはいそうですかと出してもらえるような状況ではなく、二十何 年も、帰りたいの帰れないという状況になっているのはやはり「拉致監禁」に なるのではないかなと私は思っております。だから、まぁ、どういう形でメン バーが言ってこようとも私らは全力でそれを払いのけていくつもりでおりま す。よく私が言ってるのは、自分たちの意思で北朝鮮に入った人間、自分で望んで 北朝鮮に入った人間がこうやって、北朝鮮と日本を行き来するようなことが出 来まして、自分の本意でない形で北朝鮮に入ってる人間が帰ってこれない。こ れは国内で拉致された方、拉致された可能性のある方含めて、そういう人たち が帰ってこれないというのは理不尽ではないか。あまりにも理不尽すぎない か、と思っております。(松木信宏さん)

2004年6月、母スナヨさんが危篤に。

『危なかったんですが、東京にいて、朝一番の飛行機で帰ってきたんですよ。 ここで、母には申し訳ないと思ったんですが、大きい声で、母に言ったんですよ。 “いままでこんなに苦労して薫を待ったのに、病気に負けたら薫が帰ってこない、薫が帰ってきてかあちゃんがいないと知ったら泣くよ”と言ったんです。おかげさまで回復して、ごめんね、と言ったら、「私が居ないと薫がかわいそう」と言う。
(支えですね) そうですね。薫が帰ってきたら、母はもっとしゃんとします。 』(斉藤文代さん)

2004年11月15日、松木薫さんの遺品として北朝鮮からシナリオ一冊が提供された。松木信宏さんは、薫さんが北朝鮮で日本語を教える時に教材として使用していたとされる日本のドラマ「出航」のシナリオの写真を示しながら、「兄が北朝鮮側に託したのではないか。他の報告も『シナリオ』なのではないか」と疑問を呈した。

2004年11月。第3回日朝実務者協議で、政府調査団は「松木薫さんの可能性もある」遺骨を持ち帰った。しかし、遺骨を持ち帰ったことが公表されたのは17日。15日にはそれぞれの御家族へ個別説明がされているが、その際には「遺骨」のことは何も知らされなかった。
17日夕、内閣府の担当者から連絡を受けた松木さんの姉、斎藤文代さんは、「(政府は私たちを)バカにしている。2度火葬して鑑定ができない骨なのに。15日の(拉致被害者の)家族会への報告で説明しなかったのは、失礼ではないですか」と、政府の対応を批判した。

2004年12月13日、松木薫さんの可能性もあるとされた「遺骨」はDNA鑑定の結果、別人4名の骨であることが判明した。

     
     

よど号グループ:拉致の2人 田口さんと同地区にいた

 よど号事件グループによって欧州から拉致された疑いの強い松木薫さん(当時26歳)と石岡亨さん(同22歳)が、国内で拉致された田口八重子さん(同22歳)と一時、平壌郊外の同じ地区の招待所にいたとみられることが分かった。拉致被害者の地村富貴恵さん(51)が、田口さんから聞いた話として関係者に証言した。2人は「『別荘がある』と誘われた」と語っていたという。「日本革命が目的」とされるよど号拉致被害者が他の被害者と同様の処遇を受けていた可能性が高まった。

 富貴恵さんの証言によると、田口さんは平壌郊外の地区の招待所に80年ごろ住んでおり、近くの招待所に日本人男性2人がいたと話した。2人が「北朝鮮はいい所と聞いてきたが大したことなかった」と話していることも聞いたという。

 メンバーの元妻の八尾恵・元スナック店主の証言では、グループが有本恵子さん(同23歳)を「市場調査のアルバイト」とだまして拉致したことが判明している。新たな証言は、松木さんらも同様の手口だったことを裏付けるものだ。

 グループによって拉致された3人については、目的の違いから他の被害者と待遇などに差があるとの見方があり、これまでに判明している接点は、曽我ひとみさんとジェンキンスさんが百貨店などで、石岡さんや有本さんらしき2人を見た、とする証言だけだった。

 富貴恵さんの証言では、富貴恵さんは、拉致された直後の78年9月から招待所で田口さんと同居していたが、79年11月に地村保志さんと結婚して別れた。その後、別地区の招待所に夫妻でいたが、84年秋ごろ近くの招待所に移ってきた田口さんから話を聞いた。富貴恵さんは「帰国して松木さんらに間違いないと思った」と話しているという。

 松木さんと石岡さんは、80年5月ごろスペインで失跡。88年9月に石岡さんが、松木さんや有本さんと北朝鮮にいることを実家に手紙で伝えた。失跡直前にバルセロナで石岡さんとメンバーの妻2人が一緒にいる写真の存在も判明。八尾元店主は「彼女たちが日本人男性2人を獲得したと聞いた」と証言している。

 よど号事件 70年3月31日、過激派の赤軍派メンバー9人が、羽田発福岡行きの日航機「よど号」を乗っ取った国内初のハイジャック事件。韓国・金浦空港で乗客を解放した後、4月3日に北朝鮮入りした。その後女性(妻)らが合流したが、01年以降妻子らは順次帰国。死亡や逮捕で、北朝鮮に残るメンバーは4人で、グループでは8人。83年の有本恵子さん拉致事件でメンバーの安部(現姓・魚本)公博容疑者が国際手配されている。

毎日新聞 2007年2月12日 3時00分

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070212k0000m040126000c.html

 
    
     



  日 時:2005年1月13日(木)午後6時半〜8時半
登壇者:松木信宏・斉藤文代・西岡力
場 所:友愛会館9階=三田線芝公園A1出口すぐ(三田会館隣) JR田町駅徒歩10分
地 図;http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.45.10.8N35.38.54.1&ZM=9
参加費:千円 
主 催:救う会東京 救う会全国協議会
連絡先:救う会事務局 03−3946−5780
   
 

◆松木信宏 『一通の手紙から全てが始まった...』
◆斉藤文代 『姉が語る家族の苦悩(ザ・ワイド04年9月23日)』(wmv)
夕刊フジの報道に抗議する
石岡亨さん、松木薫さんを拉致したよど号犯妻帰国へ
松木家の怒り