「私が会った拉致日本人」新たな7人!
FRIDAY5/2号 激震スクープ第1弾
「私の所属していた国家安全保衛部傘下の5454部隊だけでも30〜40人の日本人がいました。北朝鮮が一日も早く民主化し、拉致された日本人が無事に帰国することを願う一心から、あえて今回の証言に踏み切ることにしました」
韓国のソウル市近郊にある自宅でそう語る権華氏[クオンヒヨク](43)。北朝鮮版KGBにあたる国家安全保衛部の幹部だった権氏が、出張先の北京から韓国に亡命したのは99 年12月のことだった。
権氏は.59年、成鏡両道新浦市生まれ。朝鮮人民軍に入隊した2年後の76年、17 歳で朝鮮労働党に入党し、故金日成主席の指示でつくられた特殊機関「57軍校」に配属された。
78年、日本攻撃を目的とする特殊部隊「5454部隊」に移り、83年からは国家安全保衛部要員として政治犯収容所の管理責任者なども歴任している。
叔父が金正日を警護する要職にあったこともあって、国家安全保衛部で順調に出世した。彼は、やがて全国各地を隠密裏に飛び回り、人々の思想や行動を偵察・検閲する重要な任務を任されるまでになった。
そのため権氏はふつうの軍人や工作員では接触することのできない拉致日本人を目撃する機会が多かったという。
とはいうものの、そうした権氏の持つ情報が亡命後もマスコミに取り上げられることはなかった。太陽政策のもと、北朝鮮との対話を重視する韓国政府によって、発言の機会を封じられてきたからだ。
だが、今回、権氏はあえて韓国政府の意向に逆らって、本誌の取材に応じる決意を固めた。それが冒頭のコメントである。権氏が続ける。
「80年代、中国でテレビ放映されていた『おしん』をこっそりと傍受して見ると、反戦ドラマだった。それから、日本人は戦争好きで、朝鮮を侵略した悪い奴というイメージが大きく変わったんです。私の母親は戦前、日本で暮らしたこともあって、もともと日本には親しみもありました。チャンスがあれば、日本のマスコミに(拉致の実態を)話したいと思っていたんです。私の発言を妨害する韓国政府への抗議の意味もあります」
その権氏の証言はじつにショツキングなものだった。先に「特定失踪者問題調査会」が公表した約80人の写真付き失踪者リストを見せると、少なくとも7人の顔に見覚えがあるというのだ。念のために本誌は、家族から提供を受けた、7人の数種類の写真にも目を通してもらっている。
この情報の重要性を「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」韓国本部の文賢一事務局長は、こう評価する。
「当会でも特別チームを作って、権氏の証言を精査・研究しているところです。これまで日本人拉致といえば、安明進氏(元工作員)の証言だけが頼りでした。今回の権氏の証言によって、まだ多くの拉致日本人が、北朝鮮の暗部に閉じ込められていることが明らかになった意義は大きいと思います」
権氏が北朝鮮で目撃したという新たな7名の日本人とはいったい誰なのか。今回はそのうち4名を、詳細な状況を交えながらお伝えする。
佐々木悦子さん埼玉県浦和市
27歳(81年4月22日失踪当時)
「この女性とは94年6月に5454部隊の本庁舎2階にある通信局で会いました。なぜ詳しく覚えているかというと、私の誕生日が6月21日で、長年の友人だった語学参謀長が『今日はいい女を紹介してやる』と言って、会わせてくれたからです」 (権氏)
5454部隊は、平壌市東大院区三馬洞にある。前述したように、日本攻撃を目的とした特殊部隊で、金日成直属の親衛隊として知られていた。
権氏が57軍校から5454部隊に異動となったのは金正日総書記(政治委員会委員・当時) の配慮だったという。
「57軍校の任務は在日米軍基地などを標的とした肉弾攻撃で、入隊したら生きては帰れない決死隊です。そのことを心配した母が、金正日の側近だった叔父を通じて金正日に異動を嘆願したところ、『それなら5454に行った方がいいだろう』と、私を5454部隊に異動させてくれたのです」 (権氏)
その5454部隊に「通信局」があり、そのなかに日本の電波を傍受していた専門セクションがあったという。権氏が続ける。
「このセクションには30人ほどの日本人がいました。その中に最近拉致してきた、頭のよい美人がいるという噂は聞いていました。彼女は言葉を覚えるのも早かったそうです。通信局にはなかなか入れませんが、語学参謀長が特別に入室を許可してくれたんです。彼女は通信の解析などをする電波探知所で探知機の前でタイプか何かを打っていました。明るくて、日本人の友達が多かったようです。風貌からもいい暮らしをしているように見えました」
失踪当時、悦子さんは結婚5年目、浦和市内 (現さいたま市) で銀行のパートをしながら、夫の両親と同居していた。ところが、仕事が休みにもかかわらず、なぜか悦子さんは「銀行に出勤する」と言い残したまま、行方がわからなくなってしまった。もし権氏の証言通り、悦子さんが北朝鮮に拉致されたとしたなら、内陸部の埼玉県から海岸まで何者かにおびき寄せられたのだろうか。
権氏の証言に、悦子さんの母・アイ子さん(64)がこう絶句する。
「そうですか、北朝鮮であの娘を見かけたんですか。少しだけ、光が見えてきたかなあ……。もともと体の弱かった主人は心労が重なり、92年に入院してしまいました。『悦子がいる』と言って点滴を付けたまま、入院中の病室を見て回ったこともありました。主人が亡くなったのはその2カ月後でした。私は元気に生きていないといけないですね。あの娘に会えなくなると困りますから」
山本美保さん山梨県甲府市
20歳(84年6月4日失踪当時)
この5454部隊で、権氏はもうー人の日本人女性を目撃している。それが山本美保さんだ。
「5454部隊の中で何度か見かけた女性が山本さんそっくりなんです」
図書館へ出かけたきり、姿を消してしまった美保さん。現金8507円入りの財布と免許証が新潟県柏崎市の海岸で発見されたのはその4日後のことだった。失踪後−カ月ほどしてから、自宅にしきりに無言電話が入ってくるようになったという。
「姉だと確信して話しかけると、相手はじっと耳を澄ましている様子でしたが、やがてすすり泣くような声が聞こえて、15分後にぶっつりと切れてしまいました」(妹の森本美砂さん)
通信事情が悪く、規制されている北朝鮮で国際電話をかけられる場所は限られている。
もし美保さんが5454部隊の通信局にいたとしたら、人目を盗んで平壌から日本に国際電話をかけることができたのかもしれない……。
国広富子さん 山口県宇部市
24歳(76年8月2日失踪当時)
自宅からわずか50mほどの自販機にたばこを買いに行ったまま、行方不明になった富子さん。
「所持金はたばこ2箱分の300円だけ。暗いからいやと言った私の代わりに、姉が父のたばこを買いに行ったんです。真夏で玄関も窓も開いたままでした。気丈な姉だったので、何かあったら大声を出したはずです。車の苗もしなかったし、(姉の失踪は)プロの仕業だと思っています」(妹の美樹さん)
その富子さんらしき女性と権氏が言葉を交わしたのは94年6月ほ日、平壌市中区乗興洞にある中央党幹部の自宅だった。
「新義州である汚職事件が起き、金正日の特使として現地入りした叔父がうまく解決したことがありました。そのお祝いをかねて叔父は党中央の組織指導部の秘書ら10名ほどを集めて党幹部宅でパーティを開いたんです」 (権氏)
そのうちに飲み物がなくなり、困った叔父が「李」という後方総局長にピールの差し入れを頼んだ。その後方総局長といっしょに差し入れにやって釆たのがその女性だった。
「局長がそのころ、日本人女性と結婚したことはみな知っていました。隣の部屋で女や子どもたちと話をしているというので、好奇心から部屋をのぞいて彼女とあいさつをしました。それほど背が高いという印象はなく、当時、平壌で流行っていたえりの長い高級ワンピースを着ていました。玄関にあった靴はローヒールで足は小さそうでした。その靴はかなり高級品で、一足700ウォンはしたはずです。当時、党幹部の月給が300〜400ウォンですから、かなりの待遇です。ただ、私が会ったとき40代だったと思いますが、顔のしわが目立って老けた感じでした。『日本でも苦労していた』と、私の妻に語っていたそうです」 (権氏)
この証言を聞いた妹の美樹さんは、すがるような口調でこう語る。
「たしかに姉は4歳ころに実父を亡くし、幼いころから苦労しっぱなしでした。働きながら看護学校に通いました。身長も150Cmくらいで小柄です。これまで姉の消息はまったくわかりませんでした。何かわかったら、ぜひ詳細を教えてほしいと思います」
斉藤裕さん 北海道稚内市
18歳(88年12月1日失踪当時)
高校3年生だった裕さんは自宅で夕食を終え、「友達のところへ行ってくる」と出かけたきり、行方知れずになった。
「茶色のタートルネックにサンダル履きの軽装。お金もそんなに持っていませんでした」 (姉の由美子さん)
その裕さんを権氏は、「朝鮮人民軍偵察指導局の日本語教官だった」と証言する。
「この人物と最初に出会ったのは78年5 月のことです。当時、私は57軍校の9大隊に所属する中尉でした。9大隊は黄海北道谷山郡にあり、そこで彼は日本の風習を教えていました。階級は大尉で、所属は57軍校のチョンボン邑にある指揮部だと思います。ただ、授業の印象は悪かった。ちょっとでもおしゃべりをすると学生を立たせたり、とにかく厳しい教官だったからです。みんな陰ではチョッパリ(日本人の蔑称)と呼んでいました。79年には泰川の軍官学校で日本語の教官もしていました。ヨンスン先生と呼ばれ、日本の自衛隊について詳しかったのを覚えています」
斉藤さんの親戚には自衛官がいて、稚内市内に当時から自衛隊があったのはたしかだ。が、この人物に関する証言には首を傾げてしまう部分もある。
「この教官は身長170Cmほどでした」
が、由美子さんに確認すると、失踪当時の裕さんは160Cmと小柄だった。顔は似ていても、別の人物だった可能性もある。
いずれにしてもこの教官が日本人であることは疑いのない事実だ。
「小泉首相が訪朝するまでは裕の失踪を拉致と関連づけて考えたこともありませんでした。もし、裕が北朝鮮で生きているとしたら、これほどありがたいことはありません」 (由美子さん)
このインタビューを権氏はこんな自責の言葉で締めくくった。
「北朝鮮にいる時は日本人拉致を当然のことだと考えていました。なぜなら、戦争とは殺るか殺られるかの世界だからです。でもいま、拉致は悪いことだったと、胸が痛みます」
本誌は来週号で、さらに新たな拉致日本人「男女3人」についての詳細な証言を紹介する予定だ。そのなかには寝食を共にした日本人もいた……。
「私が会った拉致日本人」新たな7人!
FRIDAY5/9・16号 激震スクープ第2弾
99年12月に北朝鮮から亡命した国家安全保衛部の元幹部、権華氏(43)。
その権氏に「特定失踪者問題調査会」が公表した約即人の失踪者の顔写真を示したところ、返ってきた答えは驚くべきものだった。
「この写真の日本人には見覚えがあります。間違いありません。いまでも北朝鮮で生きているはずです」
そう語りながら、権氏が取り上げた失踪者の写真は実に7人に及んだのだ。しかも、そのうち6人は元工作員の安明進氏がこれまでに証言した拉致被害者とはまったく別の日本人だった。
「第二の曽我さん、蓮池さん」が北朝鮮にいることを赤裸々に語った権氏は59年、威境南道新浦市生まれ。74年に人民軍に入隊し、76年、朝鮮労働党入党。その後、故金日成主席の指示で創設された特殊機関「57軍校」や「5454部隊」に配属され、83年からは北朝鮮版KGBにあたる国家安全保衛部に所属し、北朝鮮住民の思想や行動をチェックする仕事に従事した。
「国家安全保衛部では超法規的な仕事も手がけました。各地を回って連絡所の点検作業や不正摘発などの作業もしました。そうした任務の中でさまざまな拉致日本人を目撃したのです」
そう話す権氏は当初、小誌の取材に対して自身の写真撮影はおろか、実名を明らかにすることも拒否した。この証言が、太陽政策のもと北朝鮮との対話を重視する韓国政府を、刺激することを恐れたのだ。
だが、今回、権氏の勇気ある証言で、新たな拉致被害者がまだまだ北朝鮮に残されていることが判明した。前号に紹介した佐々木悦子さん、山本美保さん、国広富子さん、斉藤裕さんの4人に引き続き、残る3人の存在を明らかにする。
連山文子さん兼京都墨田区
21歳(73年7月下旬失踪当時)
文子さんが家出をして、会社の同僚の男性と暮らし始めたのは73年3月のことだった。その3カ月後、やっと文子さんの居所を突き止め、アパートを訪ねた両親に相手の男性はこう答えたという。「結婚するかどうか、結論を出すまで、もう一週間か10日ほど待ってほしい」
だが、ふたりはその直後に北海道に旅行に出かけてしまう。そして、後に訪れた石川県能登半島の柴垣海岸を最後に、ぶっつりと足取りが絶えてしまった。
「文子は身長157〜158Cmくらい。スポーツが好きで、明るく活発な性格でした。左の頬にエクボがあります。当時、若い人の間で流行ったコークハイが好物でした」(母の勝美さん)
その文子さんを権氏が目撃したのは、それから20年後の93年6月のこと。
「当時、私は国家安全保衛部の要員として朝鮮人民軍の清津連絡所の検閲に赴いていました。そこで重大な問題が発覚したんですが、上に報告されては困ると考えた清津連絡所の幹部が歓心を買うため、日本人女性に私を接待させたのです。その女性こそ、文子さんに間違いありません。文子さんとは3日間で3度も会い、食事や洒を一緒に楽しみました。身長は157cmくらい、ふくよかな体つきで活発な性格の女性でした。朝鮮名をキム・ソングムと名乗っていました」
権氏によれば、特殊部隊の幹部は日本や韓国から拉致されてきた女性と結婚するケースが多いという。
「彼女に今後のことを尋ねると、『どこか分からないが、海外に出る予定です』と言っていました。彼女はおそらく、特殊部隊の幹部と結婚させるために北朝鮮に拉致され、いまはその男性と海外で工作活動をしている可能性が高いでしよう。少なくとも私が亡命する99年まで、彼女の姿を北朝鮮国内で見ることはありませんでした」
この証言を聞いた姉の竹下愛子さんが、こうぽつりと漏らす。
「そうですか、93年に目撃されたんですか。北朝鮮に拉致されたなんて、半信半疑でした。でも、こんな結果でも手がかりがあっただけでもよかった。たとえいまは会えないとしても希望が持てます。年老いた母もきっと喜ぶと思います」
大屋敷正行さん東京都江戸川区
16歳(69年7月下旬失踪当時)
80枚以上の写真の中から権氏が真っ先に目を止めたのが大屋敷正行さんのものだった。
「この人はいまも威鏡南道戚興市に住んでいると思います。私が韓国に亡命する直前、娘が生まれたという話を聞き、彼にプレゼントも贈りました」 (権氏)。
権氏とこの男性の出会いは.77年のこと。当時、57軍校に所属していた権氏は短期講習を受けるため、泰川にある人民軍総合軍官学校に行った。そこで講習を受けた120人ほどの軍人の中に大屋敷さんがいたと、権氏は断言するのだ。
「当時、彼はキム・ミョンホと名乗っており、私は彼と同じ6人用の部屋で3カ月ほど、一緒に生活をしました。身長は158Cmくらい。子どものように幼く、せいぜい15〜16歳に見えました。当時、軍官学校には日本から秘密の文書がたくさん届いていた。拉致されてから大屋敷さんはその文書を翻訳する仕事に就いていたのでしよう」
大屋敷さんは、友達とバイクで静岡県沼津市の大瀬崎海岸に遊びに行き、そのまま行方が分からなくなってしまった。
「海水浴場のハンガローに泊まり、深夜に『トイレに行く』と告げたきり、朝になっても戻ってきませんでした。正行の枕元には免許証と財布、腕時計が残されたままだったそうです。翌日、車2台で正行を探しに行きましたが、有力な情報は何ひとつなかったのです。法的には失踪後7年経つと死亡が認められるので、正行の命日は76年の7月28日、23歳で死んだことになっています」(姉の幸子さん)
軍官学校の講習を終えた後も、権氏と大屋敷さんとの交際は続いたという。
「彼は84年ごろまでこの軍官学校にいたはずです。階級は少尉でした。その後、成興市の化学兵器研究所に異動になったという手紙をもらいました。彼は労働党の高官の娘で、威興市内龍城区域にある外国語大学の教員をしている女性と結婚したはずです。私は結婚のお祝いにと、彼に新しい軍服を2着プレゼントしました。軍服は夏物で1000ウォン、冬物で2 000ウォンくらいです。北朝鮮では300 0ウォンもあれば結婚式を挙げることができるので、プレゼントした軍服を売り、その代金を結婚費用の足しにしてもらえればと考えたのです」 (権氏)
そんな権氏の友情に心を開いたのか、大屋敷さんは拉致当時の模様を詳しく聞かせてくれたことがあると、権氏は語る。
「拉致されてから4日間は自分をさらった人と、日本国内の大きい旅館のようなところにいたと言っていました。車で移動し、その後、北に連れて来られたそうです。小さい時に拉致されたとのことでしたが、その時の年齢は話してくれませんでした。苦通、北朝鮮ではそんな秘密を他人に口外すると殺されてしまいかねませんが、私がごちそうしたり、いろいろと面倒を見てあげていたので、こつそりと話してくれたのかもしれません」
前出の姉の幸子さんが言う。
「お酒を飲むと、『正行は生きているのかなあ、いくつになっているのかなあ』とよく話していた父も、86年に亡くなりました。弟は戸籍上、死んだことになっていますが、私は絶対、北朝鮮に拉致されたのだと信じています。家出する理由はないし、ましてや自殺する理由もありません。生きているということが分かり嬉しい限りです。(弟を)取り戻すまでが闘いですね」
幸子さんら家族は今後も、正行さんを救出するための署名運動を粘り強く続けていくつもつもりだという。
松本賢一さん 関西
34鹿(70年6月失踪当時)
海上自衛隊での勤務歴もある松本さんについて、元工作員の安明進氏は次のような注目すべき証言をしている。
「93年8月、私が以南化環境館と呼ばれる秘密施設で見かけた日本人が松本さんにそっくりなのです」
以南化環境館とは、平壌の北東約16km の山中にある、韓国潜入のための訓練施設で、工作員でも限られた人間しか立ち入ることができないとされていた。安氏がその秘密施設で見かけた松本さんらしき人物を権氏も目撃したというのだ。
「80年の2月か3月ごろ、成鏡北道にある対南連絡所の5日休養所(危険な任務に出る前に戦闘員らが休養を取る施設)でこの人物を見かけました。私の部屋と廊下を挟んだ118号室を出入りするところで、2度出くわしたのです。彼は対南連絡所の特殊部隊作戦組に所属する戦闘員で、身長は170Cmほど。40代半ばに見えました。階級は大尉で、ふつうなら中佐になってもおかしくない年齢なのにと、不思議に思ったことを覚えています。大尉という低い地位だったことを考えると、おそらく彼は作戦組で翻訳などの仕事をしていたのでしよう」 (権氏)
以南化環境館は、労働党連絡部の傘下にあると指摘した安氏はこう言う。
「特殊部隊の戦闘員や軍人が、環境館に出入りしていたとしても不思議ではありません」
安氏が目撃した人物と、権氏が会った人物が同一人物である可能性は高い。
「彼は人民軍に忠誠を尽くしていました。病死していなければ、軍を引退して日本語の教官になっているでしょう」 (権氏)
失踪から33年。松本さんの両親はすでに他界し、福岡県の実家も取り壊されてしまった。あまりにも長い空白の時間を妹の由紀子さんはこう振り返る。
「兄は実家を出たり戻ったりで、生活に困って送金をねだる以外には住所を明かすこともありませんでした。私としては、兄が生きているのなら苦労の多い北朝鮮でなく、日本で暮らしていてほしい。ただ、昨年の7月に亡くなった母だけは『賢一は国交のない国に連れて行かれたに違いない』と、よく口にしていました」
権氏によってもたらされた7つの拉致証言。検証はこれからだが、ひとつだけ確かなことがある。それは新たに7人の日本人男女が北朝鮮によって拉致されていたという事実だ。