月刊社会民主1月号

与党訪朝団報告  田英夫参議院議員に聞く

北朝鮮はいま


柔軟の兆しが見えてきた

−−−今回の訪問は、金正日(キム・ジョンイル)氏が総書記に就任された直後で、日本国内では非常に注目された。田先生も久しぶりに訪朝されたわけですが、北朝鮮国内の情勢についてどのような印象をもたれましたか。

 田 いろいろ言われていたが、私の印象としてはやや柔軟の兆しが出てきたかなあという感じがすべての面でします。私は七回目の訪朝です。一九七〇年代に四回、八一年、九一年と飛び飛びに行っています。最高指導者にはとうとう会えなかったから、金日成(キム・イルソン)時代のそれと比べることはできないが、政治会談を通じての印象からすると、依然として自分たちの主張を貫こうとする非常に厳しい姿勢は変わらないが、結果としては譲るところは譲るという姿勢が見えてきている。また食糧問題で実態を見せようという感じはにじみ出ている。そんな感じはします。

一番先に僕は、多くの日本の人が描いている北朝鮮像はかなり意図的に流された情報によってゆがめられているということをぜひ言いたい。それははっきり言ってアメリカの一部や韓国の一部から意図的に流されてくることであって、北朝鮮のイメージを悪くしようとする意図から、ことさらに大げさにしたりことさらにひどく言ったりする情報が長年にわたって繰り返されていると、いつの間にか日本人の頭のなかにはそれがもう常識のようにしみ込んでしまっている。

日本人配偶者の帰国の問題も、日本人の尺度からすると、日本人で向こうの人と結婚したということを横においてしまって、「日本人なのにどうして帰ってこれないんだ。帰さないのがけしからん」という話が一方的にまかり通って、向こうでの生活、向こうの人たちの気持ち、さらに一番大事なことは、朝鮮の人との結婚に両親や親戚などが反対をして、そして逃げるように夫と一緒に渡っていった人が多いことを考えようとしない。実は僕は当時新聞記者で、帰国の第一船のときに新潟へ取材で行っていたから、そういう人たちの気持ちがよくわかるんですよ。「帰ってこないのがけしからん」と言うのじゃなくて、温かく迎えてくれない日本の家族や親戚のことを考えると帰ってきたくないという気持ちの人がかなり多い。今度も一五人のうちで名前を名乗らない人がかなりいたわけです。

北朝鮮の人たちからすると、それは日本の差別だ。朝鮮の人と結婚するというと、中国人やアメリカ人と結婚するという以上に反対する。朝鮮人蔑視という歴史的な差別意識がいまだに日本人のなかにあることを考えてほしいんです。

拉致の問題は今度の最大のテーマになったわけですが、これについても「あの国は悪い国だから、拉致ぐらい平気でやる」という大前提のうえに立っているのじゃないか。拉致を否定するかというと、私も正直言って否定する材料を持っていません。しかし、逆に言えば、肯定する材料もないのじゃないか。

出発前に警察庁の外事課長を僕の部屋に呼んで話をしました。どのくらい捜査が進んでいるんだと聞いたら、「七件一〇人です」と。これは国会の答弁でもしばしば言ってきた。「そのうち二件二人は、九九・九%拉致だと思っている」と。それは国内の裁判で言えば立件して有罪にできるほどの証拠を持っているのかと言うと、黙っちゃう。輸送手段はどうなんだと聞くと、「工作船です」。工作船というのは一体何だ、そういうものを拿捕して調べたことがあるのかと聞いたら、それも答えがない。

というようなことで、拉致事件についても絶対にこれはそうだという証拠があるわけではない。こっちも絶対に拉致ではないという証拠もない。そういう問題なんです。北朝鮮に対する日本人の多くのイメージは改めてもらわなければいけない。本当の実態をきちんと見たうえで対応をしていく。私はジャーナリストでしたから、ジャーナリストは真実を伝えることを使命にしてきたと思っているから、この北朝鮮問題も、北朝鮮の真実の姿を知って、そのうえで政治的判断をしていくというのが、社民党にしても自民党にしても、日本の政治の正しいやり方ではないか。そこが大前提です。その大前提が間違っているのがいまの日本の状態ではないか。社民党はその北朝鮮と仲よくしているのはけしからん、というふうにさえ言われてしまう。自分たちの大前提が間違っているのに、それに気づかずに、「あんな国と仲よくつき合っているやつは悪いやつだ」、そういう論理はそもそも間違っている。このことを強調したい。

日本人配偶者問題

−−−次に個別の問題についてお伺いします。日本人配偶者の問題についてですが、当初日本側が強く要求して、北朝鮮側が人道的な見地から応ずると。ところが、逆に受け入れ側の外務省が一人ひとりチェックさせろということで、人数的にも一五人に絞って、そのなかに名前も出ないというのがありました。そういう日本側の態度については会談のなかで出たのでしょうか。

 田 会談のなかでまさにそのことを言われました。「日本人配偶者の問題は、日本側に問題がある。われわれは、わが朝鮮民主主義人民共和国の公民である元日本人の婦人を帰すかどうかということは、いつにかかって人道的立場から決定をしたのだ。ところが、まず第一に日本側の両親、親戚などが受け入れないということがあったり、朝鮮の人と結婚をしたこと自体を隠したいということで、日本名を名乗りたがらない現象が本人たちの間で起きている。これは原因は日本側にあります。また、いよいよ帰ることになって平壌にみんな集まったが、実際に帰国するまでそれから二週間近くかかっている。その原因は日本側にある。日本側の受け入れが円滑にいきそうもないということで、チェックを日本側でしていた。そのためにオーケーが出なかったとわれわれは理解している。この問題一つとっても朝鮮人に対する日本の差別が原因ではないか。これは一向に直っていない」、こういう言い方になるわけです。

食糧問題の真相

−−−食糧問題については、実際に視察をされたそうですが。

  この問題も、冒頭申し上げた北朝鮮の実態について誤った情報が多いということの一つの例になるんです。まるで北朝鮮全体が食うか食わずで、いまにも餓死者が何万人も出そうだという話が日本ではまことしやかに伝えられていた。しかし、平壌の町の中にいたら、食糧不足でやせ細った人はまず見えない。平壌は特別だという言い方もできるかもしれない。しかし農村地帯で、まさに九七年八月の高潮の被害、これは一種の小型台風というか集中豪雨のなかで高潮が押し寄せてきた。これは西海という、朝鮮半島の西側の海に面した、平壌から一五〇キロぐらい北西に行ったところの穀倉地帯です。新潟とか秋田、山形のような穀倉地帯です。そういうところの田園が壊滅しているんです。朝鮮では共同農場と国営農場があるが、その地域はほとんど共同農場です。その共同農場の稲の収穫はほとんどゼロになったというくらいの被害を受けているわけですから、そこではお米は全然とれない。そこの共同農場の人は、一般の平壌市民と同じように、国からの配給で食べなくちゃいけないという状態になって、それが一日一八〇グラムという限定されたものになるから、それはたしかに食糧は苦しいわけです。しかし、被害を受けなかった国営農場や共同農場もたくさんあるわけです。そこは大体ふだんどおりとれたか、ないし若干減っている。しかし、そこの農民は自分たちの食べるものは確保できる。国に納める分が減る。したがって、全体として国民に配給するお米をはじめとする農作物が減ってしまったことは事実なんです。農業自体がうまくいっていないということも事実でしょう。

その根本原因は今度の視察ぐらいではとても突きとめることはできない。それは全国を見る必要があるでしょうし、山岳地帯から穀倉地帯に至る全部の農業関係のところを見なくちゃいけない。

これは昔の話になりますが、一九七二年に僕は初めて行って、七五年にも一年に二度行ったことがありますが、農村を見せてもらったことがしばしばあります。最初に行ったときに非常に印象に残っているのは、日本の支配時代にはげ山だった山に松を植える。それが青々と育ち始めて、直径二〇センチぐらいの松になっていました。「この根元で松茸がとれるようになりました」と言ったのを覚えている。

そのふもとの傾斜地はほとんどが果樹園になっている。平壌の近くの全国で一番大きい果樹園を見ましたが、そこは飛行機で農薬をまいているというぐらい大きな果樹園です。それはまさに金日成がここにつくろうと言ってつくったと、劇にもなっているぐらいのいわば名所なんです。そういう観光名所のようになっている農園も見ました。

もうちょっと下のやや平らに近いところが畑で、そこでトウモロコシや野菜をつくったりしている。一番下の平らなところが田圃になるわけです。それが実に見事に区分されてできていて、山のあちこちに貯水池ができている。大きいところは湖といっていいぐらい大きなものがあって、必ずダムをつくって、発電用の発電所があり、その水を潅漑用水に使う。当時案内されるところで必ず「偉大なる首領金日成主席のご指導により、このダムはできました」と言われ、「この農園は偉大なる首領金日成主席のご指導でつくられました」ということを枕言葉のように言われて、それがえらい印象に残っていました。

七二年の初めての訪朝は社会党代表団だったのですが、七一年に初当選をした同期生一〇人ぐらいで行ったわけです。帰る前日に金日成主席と会うことができました。一時間ぐらい話をして、「七・四共同声明」という、南北朝鮮の統一についての南北の合意が発表になった直後で、金日成主席が非常に熱弁を振るってそのことを説明をしていました。

終わって帰ろうとしたら、これから食事しましょうと別室に案内されて一緒に食事をしたんですが、そのときについ私も昔の新聞記者の悪い癖が出て、「いままで農村やいろんなところを見せてもらったけれども、例えばダムもあなたが指導してつくられた。果樹園もあなたが指導してつくられたと。私の承知している限り、あなたは抗日戦争を戦ってこられて、大変忙しい毎日を送っておられたと思うが、一体いつダム建設の知識とか農業の知識を学ばれたのですか」と、大変いやらしい質問をしたんです。そうしたらあの人は実に豪快な人ですから、呵々大笑という言葉が当てはまるように、ワッハッハッと笑って、「ダムは建設の専門家がここにつくったらいいと言って、私がじゃあそうしろと言ったんだし、果樹園だってそうですよ、農業の専門家がつくったんですよ」。当たり前の答えなんですけれども、そういう体験が頭にしみ込んでいる。

だから本当は、私は農業専門ではないけれども、見ただけでもすばらしいああいう計画農業ができていた、それがなぜ破綻したのか。それを知りたいですね。これは想像だが、いま中国から食糧が入ってこない、旧ソ連、ロシアからも石油が入ってこない。いま一番問題なのは食糧と同時にエネルギーなんです。エネルギー不足のことをあまり日本では言わないが、エネルギー不足は顕著だと思います。それでおそらく山の木を切ってしまったのじゃないか。そういうことがあって、大雨が降れば、それがたちまち洪水になって田圃を襲う。保水力がない山になっているのじゃないか。そういうことが想像としてありうるんです。

それから化学肥料をやり過ぎて土壌が荒廃してしまったという説と、石油が入ってこないから化学肥料をつくれなくなって、足りなくなってだめになっているという説と、両極端があります。それはさっきの「とにかく北朝鮮はだめだ」というイメージを流すために両極端があるんじゃないかと思うぐらいで、やはり実態を知らないといけないと思うんです。

国交正常化は?

−−−乾杯のときに、北朝鮮側から「尊敬する橋本龍太郎閣下」という異例なあいさつの仕方をされたと聞いて、日朝の友好をなんとしてもここで道筋をつけたいという気持ちのあらわれかなとも感じました。国交正常化交渉については、わが党もずっと野党外交で朝鮮労働党とは友好関係を持ち、政府とのつなぎもやってきました。それが九〇年の三党合意に結びついたと思います。政府間交渉は九二年からもう五年ほど中断していますが、この行方についてはどうでしょうか。

 田 今度の与党訪朝団の三党一致した共通の目的は、国交正常化を促進することにあったことは間違いない。とくに社民党代表団は、伊藤団長を中心にしてわずか三人だが、行く前の打ち合わせで、とにかくわれわれは国交正常化交渉を促進することのために役に立つことをやろう、それを妨げるような言動はよそうということで一致していたわけです。したがって、拉致問題をことさら大きく取り上げて会談を決裂に導くとか進行を妨げることは、われわれはしない。ただ、日本国内で問題になっていることは事実ですから、この問題を取り上げること自体は妨げない。こういう姿勢を決めて行きました。そういう意味から言うと、結果的にはよかったと思うんです。

ただ、われわれはもっと積極的に国交正常化交渉を進めようという社民党の意思を前面に出してよかったと、その点は残念に思っています。一方で自民党は、自民党内ならびに国内の一部にある北朝鮮に対する反共的な気持ちからの反対勢力、そのことも頭に入れながら代表団が行動されたと思います。これははっきり言っていいと思います。それは、自民党が成り立っている党としての構造からしてある意味では当然なのかもしれない。しかし、日朝国交正常化交渉を進めようということからすると大変心配されたことです。しかし、自民党の強硬な意見を言われた方も、最後には結局「われわれも国交正常化を進めることには賛成なんですよ」ということを北朝鮮側に発言をしたことが一つ大きなことだったと思っています。

途中から私は、社民党担当の同行記者団と懇談をしてビールを飲みながらの話ですが、「この代表団と北朝鮮側との会談は成功すると思う。いわゆる拉致問題も障害物にはならないと思う」という楽観論をしゃべりましたら、翌日、自民党の訪問団の幹事長の野中広務さんからえらく責められました。けれども、私は社民党の人間としての考え方を言っただけだと反論をしたんです。それは正しかったと思います。

結果的に、一番の障害物は拉致事件だったが、初めは向こうは一番の責任者の金容淳(キム・ヨンスン)労働党中央委員会書記が「人道的問題も引き続き協議する」という表現にして提案してきたんです。これに対して自民党のなかで反対が出てもめた結果、北朝鮮側は「行方不明者の調査をする」という言葉にそれを改めました。そういうことで妥結したんです。初めから予想したとおり、私はこれで国交正常化交渉第九回を再開するための障害物はなくなったと思います。完全になくなったというと言いすぎかもしれないので、部屋に入って交渉を始めようとする、その部屋の入り口にことさらに大きな石を置いて、これを妨げていた、かつてはリ・ウネの問題、最近は拉致の問題というその障害物が取り除かれた。ただし、そこに至る入り口にはまだ石がゴロゴロしていて歩きにくいことも事実だ。きれいに地ならしされたところをスタスタ歩いて入っていけるという状態ではまだないかもしれない。しかし、石があって入れないという状態ではなくなったと思います。

帰国後、参議院の行財政改革特別委員会で、私は委員ですから、行財政とはまったく関係ないが、小淵外務大臣に北朝鮮との国交正常化交渉の再開について質問をして、一体いつ再開できると思っているかと言ったら、小淵さんははっきり「一二月の早い時期にも再開をしたい」という答弁をしております。したがってこの記事が出るころには、具体的に日程が決まっているかもしれない。

ただ、私が懸念するのは、政府・外務省の一部に依然として入り口に石を置きたがる傾向が見えます。私は長年の外務委員としての経験でそういう気がして、それを懸念しています。

日米ガイドライン問題と北朝鮮

−−−日米ガイドライン間題について、北朝鮮側は障害物としてとらえているのではないですか。また、社民党に対してこの石を取り除いてほしいといった要請などはなかったのでしょうか。

 田 先ほど、社民党としての主張をもっと声高に強く言うべきだった、それが残念だと申し上げたのはそのことなんです。一つは日米ガイドラインの問題で、これは向こうからも出ました。こういう障害物、北朝鮮を敵視している政策を、日本政府はアメリカと結託してとっているという言い方です。

もう一つは、それに関連して、ガイドライン問題を日米両国政府が合意して発表した直後、今月初めという言い方で、日本海で日米合同演習をやっている。彼らの言葉で言えば「南朝鮮」、つまり韓国とアメリカがフォールイーグルという名前の演習をやった直後に、今度は日本の海上自衛隊とアメリカ海軍との合同演習を日本海でやっている。これはわれわれを敵視するものと言わざるをえない、と非常に厳しく批判をしたんです。もとはガイドライン、その結果として日米海軍の合同演習をやっている。こういうことは許せないと。

これは私はまったくそのとおりだと思います。社民党はこれにもちろん賛成できない点がある。日米防衛協力のためのガイドラインについては、ご存知のとおり三党の協議会が六、七、八、九月と夏休みを返上して大激論をしてきた結果、どうしても意見が一致できない部分が残りました。最後に政府は日米で合意して発動してしまいましたが、その直後に、三党間の協議は合意に至らなかったと、そういう一枚の紙で終止符を打ったわけです。したがって、社民党の主張は社民党の主張として残っている。これは私も強く主張して、そうしてよかったと思います。なまじっか言葉のうえで合意だけしてもしようがないことですから。

その点、社民党としての姿勢を北朝鮮側にきちんと説明をする時間がありませんでした。これはまことに残念なことで、日米ガイドライン、ひいては共同演習、これにも反対ですよね。それから日本人配偶者の帰国についての基本的な考え方、それから国交正常化交渉に至る進め方、そういうところで自民党と社民党とはかなり見解が違います。そういうところをもっと明快にしなければいけない。社会党時代から労働党との間の、あるいは北朝鮮全体との間の理解があったはずですから、これを崩すようなことになってはいけない。だから、今回の与党代表団の日程のなかで朝鮮労働党側とお話をして、来年早い時期に社民党の代表団を送りたいと伊藤団長から申し入れて、「歓迎します」という答えをえているわけです。できるだけ早い機会に正式の党の代表団を送って、党の考え方を強く打ち出していく必要がある。与党三党ということになると、社民党の意見がどうしても十分に表明できなかった。十分どころか、かなり表明できなかったと思います。これをやらなくちゃいけないでしょう。

日中国交正常化に学べ

−−−伊藤幹事長は時間的に制約のあるなかで、「連絡事務所の設置」「記者交流の実施」という具体的なものを提案されているようですが。

 田 いま一番大事なことは国交正常化交渉を進めることだという点ではみんな合意しているが、それじゃあ本当に進めようとしたら、外務省に任せて交渉しているだけではすまない。私は行く前に、一九七二年に田中総理によって行なわれた日中国交正常化に至るその前の過程をあらためて調べてみました。一番先に何をやったかというと、一九六二年に日中覚書協定を結んでいて、六四年にそれをLT貿易事務所の開設という形で現実にしているんです。LTとは、高達之助さん、廖承志さんの頭文字を結びつけてLT貿易事務所と。高さんは政治家ではなくて、民間経済人です。廖承志さんは中日友好協会の会長をされた方で、非常に日本通で日本語もうまい。周恩来総理の右腕といわれた人です。そういう大きな影響力を持った二人の名前を冠して東京と北京に事務所をつくった。このことは、事務所をつくるということだけではなくて、非常に象徴的に日中間にいろいろな交流が始まる結び役、窓口になったんです。

実際にはそれよりも早く日中記者交流をやっているんです。日本側は新聞協会、中国側は新聞を束ねる新聞司、そこの間で話し合いをして、記者交流についての民間協定を結んだ。最初はたしかそれぞれ二人ずつの記者を選んで、中国から来た人も日本語がペラペラで、当時私は共同通信の記者でしたから、よく交流をしました。日本から行った人も共同通信の人で、中国語がよくできる。お互いにそれぞれの国に対して理解を既に持っている人たちを選んでやったから、非常にいい報道が行なわれて、結果的にはこれが結び役になった、あるいは日中国交正常化の促進剤になったと言っていいと思います。

それと同じように、朝鮮の記者二人なり三人と、同数の日本側の記者を向こうに送る。そして平壌と東京に記者がいると同時に事務所ができる。日中のように貿易といっていいかどうか、私は個人的にはもっと広く、交流事務所のような形と名前にしたらどうかと思います。そういう話を伊藤団長ともして、伊藤さんから社民党の団長としての発言の時間にそれを朝鮮側に提案した。

それだけでは不十分だと思いましたから、交流の一環の中で私から、向こうの朝日友好親善協会の会長とアジア・太平洋平和委員会の副委員長に対して具体的に説明をしておきました。そのときの言葉がおもしろい。「私どもは日本のマスコミに対して不信感を持っています」、こういう言葉が最初に返ってきた。「それは私もわからないではない。しかし日本の新聞協会というのは、日本の全国の主な新聞・放送の責任者が集まってつくっている民間の組織ですから、そこが責任を持って送る記者はそんな変な記者はいません」と反論したら、「検討します」という答えが返ってきた。これは次の社民党代表団のときは、もっと詳しく具体的に説明する必要があると思うし、社民党が当面具体的に進めるべきテーマだと思います。

−−−これが実現すれば、冒頭にお話のあった日本の国民の北朝鮮に対する誤った認識も……。

 田 そうなんです。初めから敵視したり、曲解していたりしたら、いい結果は生みませんから。

−−−合意文書をつくらないという話については。

 田 行く前から社民党も伊藤さんを中心に、ペーパーをつくるのはよそうということで三人で一致していた。土井党首以下それを了承してくださって、社民党もその方針で行ったんです。金丸訪朝団の最大の失敗は、朝鮮側の要求を受け入れて共同声明を出した。共同声明を出すとなると、向こうはいろいろな要求をしてくる。こっちも要求したにしても、最後は戦後四五年の償いをのんだでしょう。これは間違いです。しかも文章に残る。これを打ち消すには文章で打ち消さなければいけない。そのために次の渡辺ミッチー訪朝団は非常に苦労したんです。今度は初めからよそうといって、最初に伊藤さんから金容淳さんに対して、今度は合意文書とか共同発表を含めてペーパーをつくるために徹夜をするのはよそうじゃないかという申し入れをしたんです。向こうもすぐ受け入れてくれた。

−−−社民党は合意文書づくりにこだわったみたいな報道もされましたが。

 田 一部のマスコミが間違った報道をしていますが、むしろ社民党が一番最初から合意文書をつくるのはよそうと言って、それを自民党にも提案したんです。

−−−消極的につくらないといことではなくて、今回は国交正常化交渉だと。

 田 それを進めることが目的ですから、言葉で合意したというよりも、実態で合意しようじゃないかという言い方なんです。それは僕も伊藤さんに対して強く主張しました。

−−−なぜあんな報道になってしまったのでしょうか。

  マスコミの取材不足です。きょうもこれからラジオインタビューでそのことが質問項目に出ていましたから、ちょうどいい機会だから、だれがそんなことを言ったんだ、と言ってやろうと思っています。

−−−ありがとうございました。